小日向白朗学会 HP準備室BLOG

小日向白朗氏の功績が、未だ歴史上隠されている”真の事実”を広く知ってもらう為の小日向白朗学会公式HP開設準備室 情報など

閔妃暗殺などおもいつつ

2022-01-06 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 堀口大學というと、フランス文学に親しんだことのある諸氏はその名訳を記憶にとどめているかもしれない。そんな文学界の雄の父親は堀口九万一という。どんな方なのかウィキペディアから借用すると・・・・・・1894年、日本初の外交官及領事官試験に合格。外務省領事官補として朝鮮の仁川に赴任中、1895年、閔妃暗殺事件に際して、朝鮮の大院君に日本側から決起を促した廉で停職処分を受ける。2021年11月、郷里新潟県中通村(現長岡市)の親友で漢学者の武石貞松に送った1894年11月17日付から事件直後の95年10月18日付の8通の書簡が見つかった。95年10月9日付の6通目には現地でとった行動が細かく書かれており、王宮に侵入したもののうち、「進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸(ようや)く奥御殿に達し、王妃を弑(しい)し申候(もうしそうろう)」(原文はひらがなとカタカナ交じりの旧字体。以下同)と王宮の奥に入り王妃を殺したことや、「存外容易にして、却(かえっ)てあっけに取られ申候」という感想まで述べている・・・・・・と細かく記されている。閔妃に直接手をくだして殺害した人物としてニュースになったのもつい最近のこと。まあ、たいして大きなニュースという訳ではなかったけれど。いずれにしても、優秀な若き外交官がどうして「暗殺」の直接の犯人となりえたのか。その殺害に関して、「なんでこんなに簡単に殺せちゃったの?」と感想まで記している。これは普通の感覚ではないのではないだろうか。外交官といえば官僚の花形である。ところがどっこい、その国の外交を直接担当する高級官僚が「暗殺を教唆」したのだ…というのである。イザベラ・バードの朝鮮紀行の一文にこんなくだりがある。「三浦の教唆により、王妃殺害を決意し、そのために仲間を集め(中略)他の十余名に対して王妃殺害の指揮をとった」ということが広島第一審裁判所において被告のうち2名から聴取されているのである。三浦とは三浦梧楼、三浦子爵、朝鮮公使のことであり、れっきとした高級外交官である。結果としてはご存知のように証拠不十分で全員無罪であった。公使はこれをきっかけに確か小村寿太郎に交代している。その後に日本国天皇の弔辞が朝鮮国王に届くのである。・・・・堀口九万一はただ単に上司の命令に従っただけのことであったかもしれない。私は日本という国家が閔妃を殺害したとは言わない。ただ、形だけの裁判を開いて無罪放免にしたのは国家である。後追いで国家は「暗殺」を追認していく。なんか、こんなシーンいろいろなところで見られた気はしないであろうか。張作霖爆殺犯の河本がどうなったか、国内テロの515も226もそういえば一応禁固刑や銃殺の刑に処せられたりはしているものの深く真犯人までは追求されてはいない。などなどちょっと調べたらいろいろと出てきそうなお話の一つでしかないのかもしれない。誕生までには数年はやいが、後の白朗だったらどう思うだろうか。こんなやり方を、つまり、関東軍のやり方を、日本軍人のやり方を、そして日本政府のやり方をいやというほど知り尽くした白朗だったらどんな行動に出るだろうか。そんな妄想に駆られてくる。(文責:吉田)
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白朗の季節

2022-01-05 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 令和の御世になって時がたつのも速いことこの上なしの感です。西暦で言った方が時代感覚もわかりやすくなっているというべきでしょうか。しかし、昭和はやはり「昭和」という感じが否めない。特に昭和3年張作霖爆殺ころから一気に時が乱調になだれ込み、226で大きな弾みをつけて昭和20年8月15日まで。この時間の流れは1928~1945という数字の羅列以上の重みを感じてしまいます。そういえば今年令和4年は昭和97年かな。ということは太平洋戦争が終結、というか日本が負けてから77年ですか。このくらいの時間では、別次元の世界への飛躍は到底無理なようで、相も変わらず戦争の時代を継続しようという力学というか、戦争サステナビリティという言う錬金術メソッド幻想の虜というか、そんな輩による世界のあちらこちらでの火種検索には余念がないようです。アフガニスタン、ウクライナ、ミャンマー、台湾、相も変わらずの北朝鮮、世界地図を十字に区切るど真ん中に位置するアフガニスタンはあたかも恒久火種の元でもあるかのような存在感を秘めているのはまあ仕方ないにしても、半島やら、国境、水辺附近の地政学に“恵まれた”金のなる土地・地域では、きな臭さが漂っているようです。やはり、白朗の出番ですね。アジアの平和を現実に希求する力学が求められているのではないでしょうか。戦争は最大の公共事業などという寝言を許してはならないのではないでしょうか。やっぱ・・・・白朗の出番です。40年の眠りからちょっとだけでも醒めてみていただきたいものです。(文責:吉田)
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興亜挺身隊の悲劇…武士道の廃頽

2021-11-29 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 中公新書に「ある明治人の記録」がある。サブタイトルは会津人柴五郎の遺書である。編者は石光真人、明治から大正のころシベリア・満洲で諜報に従事した石光真清の息子である。同書128ページに「要するに武士道の廃頽であり、…(略)…三百年の太平になれた指導者層が統制力を失い、ほとんどなすところなく事の赴くまま流されてしまったことに遠因があろう。...」とある。何のことはない、陸軍軍人トップ陣の謂いである。同ページの最初に「日露戦争までは、日本の国軍は立派だった。あれだけ多数の犠牲者を出した旅順攻撃に際しても、要塞内に逃げ込んだロシア市民の退避を軍使をたてて要請したが、食糧など充分なるうえ、防備固く安全なりとの理由で拒否され、やむなく攻撃を開始している。各戦闘における軍規の厳正さについて、敵将クロパトキン将軍の回顧録は、世界まれに見る軍隊として賞揚している。」・・・と書かれている。昭和17年秋、柴五郎は世田谷の自宅を訪れた石光真人に「この戦は負けです。」と断言もしていた。愚かな一群の戦争指導者を思うとき、その言葉しか出てこなかったということだ。薩長の増長に会津の心はただ心痛めていたのかもしれない。
 そして興亜挺身隊の悲劇がある。同書149ページに「典型的な悲惨な処置を受けたのは興亜挺身隊の最期であった。」と記している。続けて、ちょっと長いけれど...「北京特務機関長の谷萩那華雄中佐は、中央の武藤章大佐の命を受けて、華北の治安工作のため、尚旭東こと小日向白朗に中国人による義勇軍を編成させ、北京城内に司令部を設けて辺境の治安に当らせた。必要がなくなると、第一支隊の隊長カオテイエンは牟田口廉也連隊長の命によって誘拐され、副隊長皆川修太郎とともに古井戸に投入されて殺され、第三支隊約六千名が昌平県内に集結中を日本軍に包囲され、市隊長侯顕成は拉致され、また第四支隊二千名は南口駐屯の穂積大尉の一個中隊に包囲され、第六支隊は北京郊外大王廟に集結中を同じく日本軍に殲滅され、北京警備司令官山下奉文は興亜挺身隊に華北退去を命じたのである。尚旭東はやむなく歩騎兵一万二千を率いて北京北方の鎮辺城の山中に向い、昭和13年の旧暦8月13日、次のような解散決別の辞を述べている。「私を信じ、日本軍を信じて、けなげにも華北の治安に挺進せんとするものと従ってきた兵士たち、これらの義士の前途には、日本軍がこのような姿であっては、日ならずしてより一層困難な問題と圧力が加わてくるであろうし、場合によっては、巧みな謀略によって殲滅されるであろう。不幸にも、日華の戦いはまだつづくであろう。君たちは日本軍の第一線に参加し、あやまれる日本軍の民衆虐殺から中国人を守ってやれ。・・・日本軍閥の特権意識では中国の四百余州はとうてい救えまい。・・・」とつづき、石光真人の指摘はまだまだ続いている。
 悲劇を悲劇として美化して終わらせてはいけない。悲劇を惹起した勢力こそ殲滅せねばならないであろう。ひょっとしたらそうした勢力は姿を変えてまだ生き続けているかもしれないのである。(文責:吉田)
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予科練の歌、なぜか懐かしい

2020-10-06 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 こんな歌があることを思い出してしまった。古関裕而を描いた朝ドラ「エール」を見ていたせいだ。
若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨(いかり)
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

燃える元気な 予科練の
腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて
行くぞ敵陣 なぐり込み

(西條 八十『若鷲の歌』一番・二番の歌詞より)

 幼少のころ、そう小学校にも上がっていたかいないか、そんな幼いころのことだ。なぜか8歳年上の兄が良く歌っていたのだ。戦争も終わって10年は経っていたと思う。なぜなんだろう。兄だって昭和15年生まれだし軍歌に馴染みがあるわけでもないだろう。私も兄に乗せられてよく歌っていた。そして記憶の中ではあるが、結構上手に歌えていたのだ。まだ、そんな学校が存在していて予科練に行ってみたいと思ったのかもしれない。歌って不思議なものだ。それから半世紀をゆうに超える時間を経ているが、今でも歌えてしまうのだ。いいじゃないか。その中身は、その意図するところはどうであれ、「でっかい希望の雲が湧く」なんて。と思ってしまうのである。
 小日向白朗翁は戦中この歌を聞いたことがあるのだろうか。いやないのではないか。日本という国がどんなふうに戦争を継続し、どんなふうに人々の命をさらにさらに消耗せんとしていたか、そんな戦争宣伝の一コマに過ぎないことではある。でもなぜか、心に残るメロディーなのだ。(文責:吉田)
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8月葬送

2020-08-26 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 残暑の季節。
この時期は、心の澱(おり)が沈殿するのを実感する季節でもある。それは、いやおうなしに年中行事として繰り返されている此岸と彼岸を往来する死者との交流の季節とも重なっている。わかりやすく言えば「死者との会話」の季節なのだ。もちろん死者は声を発生してしゃべることはない。ただ、生者としての私は(私たちは)、反響のように響いてくる死者の声をあたかも虫の音を聴き取るかのように実感する、そんな季節である。この虫の音は果たしていつまで聴き取ることができるのであろうか。
 310万人という数字がある。今から75年前、一つの締めくくりの時期を迎えた日本は死者の数を数えた。数多の死者の上に迎えたその時の風景は、その後の時の流れの中で多少は変容してきたのであろうか。東京裁判で絞首刑になった人たちもいた。それで禊は済んだのだろうか。6月23日沖縄の惨劇、8月6日、9日の原爆以前、3月10日東京大空襲、いや、その前の2月4~11日ヤルタ会談、・・・いやもっと前にいろいろなことがあった。要するに「やめるチャンスは何回もあった」のである。「日本は負ける」との見識はすでに、一部の人というよりもかなり多くの知者たちに共有されていたともいえる。ただ、精神を心底から病んでしまった時のリーダー(そんなリーダーが存在したか?)は、すでに「命の意味」を感受不能なまで重体・危篤に陥っていた。
 遡ることさらに17年、満州奉天で一人の覇者張作霖が爆殺された。犯人は野に放たれたまま、大日本帝国陸軍においては犯人賛美、あるいは、犯行の追認といった順法精神の劣化が始まっていた。さらに3年後の満州事変に至るまでの微妙な時期、つまり、日本が蟻地獄に入り口に立ちながらも足をとらわれずしっかりと起ち上れるかどうかの瀬戸際にいた時、確かに「知」は存在していたらしい。中公新書の大杉一雄著「日中15年戦争史」(なぜ戦争は長期化したか)124ページに「石橋湛山の満蒙放棄論」というタイトルかある。この著の中で「斯くしてわが国は最も気永く親切に、支那人の国民意識に衝突せざる限りにおいて、同地の世話をし、而して自然に同地が文明に導かれ、かつ親日化するを辛抱して待つ。・・・・結局此外に真に満蒙をわが国民に価値あるものにたらしむる妙策はないであろうと考える。」領有論と真っ向から対立する見識である。これはなにも石橋一人の見識というものではなくて、視点は異なっているものの関西財界一部に日中貿易の健全な発展という観点から「中国のとの純然たる経済関係を樹立すべき」との声もあったという。
 しかし、日清、日露の既得権益拡大意識は単に軍部のみならずかなり一般の人々までも含んで広範囲な精神を蝕んでいたといえよう。資本主義は植民地なしには発展持続することはできないとの幻想があったのかもしれない。世界大恐慌からの脱却幻想も拍車をかけたのかもしれない。五族協和などの耳障りの良い言葉をふんだんに駆使して煽ったのは時のマスコミでもあった。 これらをまとめて継承発展させたのは優秀な知能と行動力を持っていた石原莞爾であった。この時期にこの場所で天才軍人石原を得たわが国はさらにおおきな悲劇へと導かれていったのであろう。(文責:吉田)
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92年前、6月、日本は蟻地獄への入り口に立っていた

2020-06-23 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 それは92年前のことになる。6月4日午前5時20分を少々回ったころ満州奉天駅の西方1キロほどの地点で張作霖が爆殺された。
 主犯は河本大作大佐、当時45歳。余談だが、爆弾着火当事者といわれる東宮鉄男は私の高校の先輩でもある。そして、22日後の6月26日、河本は取り調べを受けている。結果「関東軍、並びに河本は事件と無関係、白である。」(加藤康男著、謎解き張作霖爆殺事件より)という報告が田中首相にあげられる。誰が取り調べをしたのか。鈴木荘六参謀総長の命によって荒木貞夫(そのほかに、白川陸相、畑英太郎次官、南次郎参謀次長)ほかが担当した。ここで、笑ってはいけないだろうが、失笑は出てしまうのは仕方ないところだ。すべて「出来レース」であることは明白。8年後の2.26事件にまでこの勢いは止まらない。爆殺17年後の敗戦までにつながる蟻地獄の入り口であった。唯一食い止める方法は、確かに存在はしていた、と思う。それは少なくとも主犯を銃殺することではなかっただろうか。そして、荒木に期待しても当然無理ではあるが、もっともっとその裏側にいた黒幕の存在をはっきりと認識する必要があったのではないだろうか。・・・それこそが歴史に線香、お水をあげて供養することであると思うのである。ちなみに、河本は事前にヤマトホテルに一個旅団近くを集結させておいたという。張作霖配下の奉天軍の反撃を見込んでのことだという。しかし、火ぶたは切られず、河本の「満州事変」は幻に終わった。板垣と石原が3年後にこれを継承したのである。蟻地獄は深く、深く・・・・なお、同爆殺に関してはコミンテルン説などの異論もある。(文責:吉田)
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紫陽花や帷子時の薄浅黄・・・芭蕉

2020-06-01 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 紫陽花や帷子時の薄浅黄・・・このころは陽気もめまぐるしく変わり、晴天の次は土砂降り、気温も真夏かと思えば花冷え時を感じたり、いちいち衣替えをしていたらいくつも洋服をそろえなければ、ってな具合の大変面倒な季節でもある。アジサイはそんな季節、一言で言えば「初夏」かもしれないが、人の思いをいろいろとかき乱す花であると思う。私の家には花の咲かないアジサイの鉢がある。これは亡き妻が、確か5~6年前に白山神社で買い求めてきたものだ。いや、もっと前だったかもしれない。買ってきた当時は鮮やかな色合いを魅せて呉れていた。そして、月日はたちその季節がやってくると少しだけ咲いてくれた。また、一年が経過し、その季節が来ると…ついに一輪も咲かなくなってしまった。要は手入れが拙いだけのことであるけれど、「時の流れ」はそんなものではないだろうか、と思う。「時の流れ」を手入れできるとお思いか。時の流れは歴史として残されているので、時に思いを馳せることはできる。そうやって無機質な「時の流れ」に水撒きをしてやれば再び、大きな花を咲かせてくれるのだろうか。そんな思いを抱きながら、白朗をしのぶ季節である。(文責:吉田)
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眈黙してから起きよ

2020-04-16 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 コロナ禍で世界が凍り付いていくようだ。
私には「とりあえず眈黙せよ。時が来たら起きよ。」と言われているように思える。黙して語らずとも時が来れば自然と起つ。今はコロナウィルスを過ぎ越せ、と。過ぎ越してのちに復活の日が来ると。
 ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ(吉本隆明、廃人の歌)と詠った思想家は8年前すでにこの世界にバイバイしている。ある意味、よい時期にに逝ったのではないかとも思えてくるが、健在だったらコロナウィルスをなんと表現するだろうか。ただ、黙って身を躍らせるようにして生を図らんとするだろうか。彼が発言しても世界は凍り付くことはなかった。真実ではなかったのか。
 而して今、真実を云々するときではない、と思う。今はただの中に籠って眈黙するのみが良かろうかと思うのである。(文責:吉田)
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昭和時代の陥穽

2019-09-20 | 白朗と私 会員思うままに・・・

2019年9月

① はじめに
 時代を語りたい。なぜなのかは大体わかっている。それは今を確認したいからである。今を確認することで、私は生存を許される気がしている。今を語れないということは、今を生きていないに等しいと思う。ところが、「語れない今」が実はひしひしとその存在感を強めてきている、と思うのである。その正体はいったい何なのか。それを追い詰め、誰でもが自由闊達に時代を語ることができるようになる、「今」であろうが、「過去」であろうが「時代」について全く分け隔てなく語ることができる、それが目的なのだ。つまりは、自由闊達に生きるためであるということだ。「過去」も「今」も実は同じである。ただ、単に「時間の流れ」の表象である。私はその意味で過去と今を自由に飛び歩く手法をとりたいと思っている。

 昭和天皇が即位した、その時に昭和の時代は始まった。でも、舞台の幕が開くように新しい時代が始まるわけではない。当然だが地続きで時間は流れているからだ。たとえば、大日本帝国陸海軍が突然テロ集団になったわけではない。テロ集団に変貌していくプロセスというものがある。いや、正確にいうと、テロ集団にはなってはいない。けれども、限りなくテロ集団に近い統制のとれていない恣意的な無綱紀の武装集団、稚拙で空想的な精神主義という戯画に集約された極端な共同幻想のみを一筋の錦として存在し続ける武装集団に化してきていた。昭和11年の226を見るまでもなく軍人の精神劣化には目を見張るものがある。その途中でというべきだろうか、破綻に滑り落ちていくプロセスでというべきだろうか、大日本帝国陸海軍は終焉に至った。ポツダム宣言の受諾という方法で。もし、というのは歴史にはありえないけれど、もし同宣言の受諾がなかったら「日本」という国自体がこの地球上から消失していたかもしれない。極めて少数の極小マイノリティーとして標本のような「日本人」が残っただけかもしれない。310万人の日本人が消失しただけでなく5,000万、6,000万という単位で日本人が消失していったかもしれない。当時の大日本帝国陸海軍は「消失の美学」を信奉してさえいたのだから。「天皇陛下のために死んでこーい。」などという支離滅裂な雑言を発していた輩が闊歩していたのだから。無知蒙昧の大日本帝国陸海軍は、無知無能を積極的に推進したうえでの極度の精神主義を「宗教」にまで高めることができずに、つまり、老人子供に至るまで一人一人に爆弾を配給して自爆テロを推奨するまでの徹底さを欠いたまま、妥協に至った。最悪の妥協であろう。最悪の妥協の結果、戦争が終結した。多少の知性が残っていたなら、原爆が落とされる前に、沖縄戦が展開する前に、東京大空襲の前に、ヤルタ会談でのソ連参戦をつかんだ小野寺電を握りつぶす前に、・・・何度でも「終わり」を達成することができるタイミングがあった。遡ればきりがなくなる。伊藤博文暗殺がなかったら…そう第一次大戦さえ起きなかったであろう。第一次がなければ当然第二次もない。戦争の世紀は始まらなかった・・・といえるかもしれない。しかし、いつの時代でも、この地球上のどこのエリアでも、いるのである。「せっかくのこのぼろ儲けのチャンス、絶対に逃さない」あるいは「このままでは我が国は三流国に落ち込んでしまう。帝国存亡をかけても戦争を惹起しなければならない」といったような使命感を持って戦争に突入していく輩が。いずれにしても同じような稚拙な知的レベルのお話である。伊藤博文がココツエフ(ロシア)と話をつけちまったら全くうまみがないじゃないか、などというイギリス辺りのエリートが、あの手この手で暗殺を実行させてしまうのである。そして、うまーく、導いていかれていくのがどこぞの国民である。「国難」という捏造されたあだ花をほんものの優曇華と信じ込んでしまい、死のロジックを組み立てていく。まさに、神の復讐としか言いようがない。神は人間をして破綻への道筋を作ったのだ。人が人を殺す、それも正義の名のもとに、あるいは、お国のために、という題目のもとに。これを常識では「狂気」という。私は常識人でありたい。人を殺す正義に身を寄せたくはない。いわんや、大量殺戮をや…である。戦争とは、大量殺戮の謂いである。単純なアサッシネーションではない。「マサカ」である。
 昭和の時代は戦争の時代であった。それは昭和20年を過ぎても同じことであった。世界中で戦争は継続していた。早い話が、戦後すぐに始まってしまった朝鮮戦争はまだ終結を宣言されていないのだ。わかりやすく言えば、日本は朝鮮連合軍地位協定や日米地位協定などに見られるようにずーっと朝鮮戦争にコミットし続けてきている。これでよく「平和です」などといえたものである。「バカコケ!」という話である。日本人の意識上に顕在化するにしろしないにしろ、日本は戦争を続けてきていた。いや、正確にいえば戦争に協力し続けてきていた。いや、現在でも協力し続けている。そして、それをさらに拡大していこう、というのが現政権の姿勢である。きわめてわかりやすい。安保関連諸法をいじくり回してさらに戦争にのめりこんでいこう、というのだ。どこにでもネタは存在している。戦争ネタを拾ってくるのはマスコミだったり、どこぞの死の商人(商社・メーカー・エージェント)だったり、広告代理店だったり、まっいろいろいる訳である。現ナマを掴まされればよほどの根性がない限り協力、というか戦争にコミットしていくのが政治家たちである。つまりは「戦争宣言」である。これで当分の間はぼろもうけが続けられる、というのが現在「経済界」のトップに君臨している死の商人たちである。人呼んで「経団連」だ。もちろん経団連の全機能を表しているわけではない。ほんの一部が「死の商人」であるのだが、それこそが本質であることに慄然とするのである。「死の商人もほんの少しだけやってるよ」というわけではないのである。泰平組合(三井物産、大倉組、高田商会)の歴史を、昭和通商(高田商会が消えて三菱が入る)の歴史をきちんと知っていなければならないだろう。昭和18年東條首相と岸信介商工大臣の肝いりで成立させた「商工経済会設置法」で法的な枠組を構築したうえ、商工省を軍需省に改めるなど、きわめてわかりやすい軍事経済一致体制を築き上げている。戦前では陸海軍と癒着し戦後ははてどこと癒着していたのか…というところである。そんな背景の上で、大日本帝国陸海軍の亡霊は生息し続けてきている。
 でもなぜだ、とは思わないだろうか。昭和20年8月15日以降は「平和」が続いているのではないか。この終戦の日、これを境に戦争の時代と平和の時代がきちんと区分けされたのだ、と。しかし、反省など全くしなかった日本人は戦前の毒入り饅頭というか毒入りシロップをたっぷりと吸い込んでいるままに戦後の時代へと突入してきたのである。ここにドイツなどとは全く異なった悲劇が始まったのである。つまり、戦後昭和の始まりである。戦後昭和の初めのころ吉田茂が航空権・国防権・電波権を売り渡して復興資金30億ドルをアメリカ保証でサッスーンから引っ張り出し、「経済特区新日本」とばかりに走り出してしまった。これが現在、今の今までも戦中を継続させている元凶である。つまり、今、心ならずも「戦中」なのだ。ただ、国防権を担保に抑えられちまったという事情で処々再軍備などというたわごとは無理難題だったわけだ。そんなこんなを意識しないと昭和は語れない。再軍備してこなかった、あるいは再軍備できなかったのは、平和を志向してゆえの人智努力の結果でもなければ日本国憲法9条のおかげでもない。日本はもともと国防権などもつてはいなかっただけである。その代わりに高利の金をつかんだではないか。戦中軍部で幅を利かした大紳士がそのまま戦後大商社で大活躍するとか、戦中一兵卒を当然のように死地に赴かせていた大将が戦後政界人脈をベースに巨万の富を作り上げてきたとか。そもそも日本そのものを売り渡して占領者の手先となって政界の大ボスにのさばってきたとか。本来ならあり得ない話である。だーれも反省などしなかったのである。沖縄報道を見てみよ。あれが主権国家日本の姿か、平和国家日本の姿か、と疑わせる事件が頻発していたではないか。日本国内であるにもかかわらず墜落米軍機に触ることさえできない。強姦されたことがわかっているにもかかわらず刑事訴追することさえできない。ちゃんちゃら・・・・・である。つまり、継続しているのである。辺野古の今にもつながっているのである。昭和を突き抜け、平成を貫き、そして令和になっても、大日本帝国陸海軍の亡霊は生息し続けている。これを絶滅させる、させたいというのが私の願いである。確かに、私の父も徴集されて昭和13年徐州会戦に参陣した。つまりは大日本帝国陸軍の一兵卒であった。殺さなければ殺されるという状況で人を殺してきたことくらいは聞いている。死と隣り合わせの時間を強制されたことも多少は聞いている。これを反省しないで何を反省するというのだろうか。そろそろ昭和という時代に引導を渡そうではないか。 

② 愚行の系譜
さらっと並べてみよう。
   張作霖爆殺 昭和3年
   奉天城襲撃(失敗-白朗自首) 昭和4年
   柳条湖事件-満州事変   昭和6年
   第一次上海事変 昭和7年1月
   血盟団事件 昭和7年2~3月(非軍人のテロ)
   5.15事件  昭和7年5月
   陸軍士官学校事件 昭和9年
   2.26事件  昭和11年
   盧溝橋事件 昭和12年7月
   第二次上海事変 昭和12年8月
   南京虐殺事件 昭和12年12月
   ~日中戦争の時代~
・・・・・・・父が徐州会戦に参加したのは昭和13年2月~8月であった。この直後であったのだ。 
   ノモンハン事件 昭和14年5月 
   真珠湾攻撃 昭和16年12月(太平洋戦争) 
   蘭印降伏 昭和17年3月
   ミッドウェー海戦 昭和17年6月
   ガダルカナル島の戦い 昭和17年8月(昭和18年2月撤退)
   インパール作戦 昭和19年3月(7月には作戦中止)
   神風特別攻撃隊レイテ沖発出陣 昭和19年10月
・・・・・そして、昭和20年2月にはヤルタ会談ですでに連合国サイドでの日本占領策が相談される。以降は、いわゆる「空襲の時代」である。3月の東京大空襲で無辜の都民が大虐殺された。6月には米軍の沖縄上陸により日本大地で一般庶民を大きく巻き込んだ戦闘が始まってしまった。8月には原爆2発。嘘か本当か知らないが、それでも戦争継続を主張する愚劣な軍人がいたというではないか。生命に対しての畏敬の念をはなから欠落している欠陥人間といってもよいだろう。それが、大日本帝国陸海軍が大きくかかわっている愚行の系譜を構築してしまったのである。ちなみに、小日向白朗学会の一会員の叔父がインパールで戦死していると聞いた。牟田口廉也なる愚昧な軍人のなせる結果の一つであった。そんな例が、何万、何十万、何百万とあるという訳であろう。
 ところで、最近NHKが、直接田島宮内庁長官(当時)が聞き取り書き記したものをベースとして昭和天皇拝謁記という番組をオンエアしている。その中で昭和天皇が言っている印象的な言葉がある。記憶によるので正確ではないかもしれないが、張作霖爆殺犯の処罰が間違っていた、ということである。背後に大物がいたとはいえ、とまでは言ってなかったが、厳罰に処すべきであったということである。また、「昭和天皇独白録」(文春文庫)の中で昭和天皇は「・・・・聞く処によれば、もし軍法会議を開いて尋問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取止めと云うことになったというのである。…」と大変重要な指摘をしている。結局当初徹底追及を示唆していた田中義一総理はやめざるを得なくなって辞職した。こうした軍部の姿勢、つまり、法というか義というあるいは理といおうか、そうした理念を敵に回して恫喝に終始する軍部の姿勢が露骨に示されたのである。こうしてうやむやにされてしまった河本処分は間違った伝統を作り出した。昭和天皇をして「この事件があって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した。」と言わしめているのである。結局、軍人をクビになったくらいで以降も意気揚々と大物面をして国内・大陸を闊歩していたことはいろいろな書物に書き記されている。私見であるが、河本、東宮あたりは銃殺刑にするべきではなかったか(注記)。当時の軍部全体を敵に回すことになったかもしれないが統帥権は天皇にあるのである。張学良の易幟もなかったのではないか。それくらいのことをしなければだーれもビビりはしないのである。「立派なことをしてくれた」という評価が残るのみである。それこそが大日本帝国陸海軍の綱紀の乱れの嚆矢ではなかったか。それが一連の昭和愚行の始まりであったという認識を、確かに昭和天皇は持っていたと思うのである。大日本帝国陸海軍の本質的な無責任体制のはしりであったともいえる。この「無責任体制」は組織が大きくなればなるほど強固な体制維持指針と化していく。わかりやすく言えば、「だーれも責任を取らない」という張作霖爆殺事件の精神は、昭和、平成、令和と続いてる。福島原発の大事故の責任をだれがとったか。誰がとろうとしたか。政権のトップから経済界のトップまで含めてみーんな我関せずであり、つい最近は東電首脳3名の無罪判決という司法の凋落までもたらしているのである。・・・張作霖の命が消えてから8年、国内で226が起きてしまった。この真意を多くの方が誤解しているらしいが、拝謁記ではっきりと言っている。「下剋上であったから。。。。」と。そのとき、東京湾に長門を配備し大阪湾に愛宕を配備した伏見宮はどういう行動をとっていたかチェックしていただきたい。陸戦隊はなぜ動いたか。また、肝心な陸軍トップの閑院宮はどういう行動とっていたかもチェックが大切ですね。さらに、安藤輝三が信奉してやまない秩父宮はなにをしていたのか。下剋上の意味するところは…つまり、その時昭和天皇は自らの生命の危機を感じ取っていたと思うのである。それから、転がり落ちるように愚行愚行の積み重ねが始まり、昭和20年8月15日を迎えるのである。幾多の生命が消失したのか数えていただきたい。そして前述したように、だーれも反省しないままに戦後昭和を迎えることとなってしまった。
【注記】張作霖爆殺
 河本大作の場合・・・ウィキペディアによれば、除隊後に南満州鉄道理事、満州炭鉱理事長、山西産業株式会社社長と記されている。田中=蒋会談を仕組んだ松井石根をして「厳罰に処すべき」と言わしめたものの、このような言ってみれば華々しいキャリアを積んでいるのである。大日本帝国陸軍最先端技術による爆薬を使用した“華々しい殺人行為”を首謀したのち、4年ほどして昭和7年には満鉄理事である。関東軍時代のつながりによって得た職であることは明白であろう。つまり、張本人どころか周辺軍人の大勢はまったく「反省」はしていない。だからこそ、私は「銃殺」に処すべきであったと考える。それから2年したら満州炭鉱の理事長になった。そんなに“出世”するなら私だって「殺人」くらいの犯罪は犯すかもしれない、という輩がいてもおかしくはない。つまり、すでに軍部全体が大きなアモラル状態に陥っていたというべきだろう。こうした河本メソッドは悪しき先例と化していく。昭和17年には花谷正参謀長のあっせんで日支経済連携を目的とする山西産業の社長になった。戦争が終わった後には同社は中華民国政府に接収された。河本は西北実業建設公司と名称を変えた同社の最高顧問に就任、継続して会社経営に携わっていたという。しかし、昭和24年には中国共産党軍の捕虜となり、太原収容所に収監され、昭和30年に同収容所で病没したとされている。遺骨は興安丸で帰国し故郷に戻っている。故郷の兵庫県三日月町史には「報国の至誠とその果断決行は長く記録されよう」と書かれているといわれる。(ウィキペディアより) もちろん歴史に「もし」はないが、東宮ともども張作霖爆殺の罪で銃殺に処されていたとしたら、軍部の総反発はあったかもしれないが、満州事変は起きなかったであろう。なぜならば、石原、板垣らも「銃殺」を恐れたであろうからである。とうぜんのことながら、国内で5.15や2.26など若手将校たちの殺人行為(テロ)も起きなかったであろう。つまり、軍の規律は保たれて、中国のとの関係は大きく変貌を遂げていたに違いない。それこそ松井石根が夢見ていた「大亜細亜主義」が実現されていたかもしれない。
 大日本帝国憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を故意に読み間違えて政府から独立してしまった陸海軍は、天皇直属であるとして政府をないがしろにしつくしてしまい、また、政府も軍部を追認していくという悪循環サイクルを構築してしまった。こうして、「愚」の系譜がいくつも折り重なるように積み上げられていくのである。その目立った事件、先例となったのが張作霖爆殺事件であったと思う。(ご批判無用~つづく・・・文責吉田)
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白朗、馬賊を捨てたその時

2019-08-21 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 朽木寒三先生の馬賊戦記の最後の部分ですが、死刑を目前にして生きながらえることに腐心していたころ・・・・・
(馬賊戦記から)  こうして、12月17日、もう夕方6時過ぎである。廊下の一番出口のところで、看守の大声がきこえた。「シャン シュイ トン」と呼ぶ。「イヨーッ」というのが、こっちの答え方だ。すると相手は、何とかかんとか-っと叫び返してきた。白朗は片方の耳が悪い。左の方角からくる声をよく聞きとることができない。それでも言葉の調子で、「開廷-ッ」と言われたような気がしたがそれには少し時刻がおかしい。
・・・・・・・・といったいきさつが書かれている。つまり、これが、釈放の日だったのだ。最後の質問は「あなたの国籍は、ほんとうはどこですか」であった。「日本です」と答えた白朗、死刑を免れた瞬間であった。と同時に、私には馬賊を捨てた瞬間であったとも思える。取り調べには徹底してその過去をしゃべらず、材木屋をやっていたということで通してたという。その時すでに馬賊を捨てていたのかもしれないが、その記念日が12月17日であろうと思う。すでに戦争は終わり3年余りが過ぎていた。
 昭和23年12月17日のことだった。その後自力でというか、仲間の手を借りて大陸を脱出帰国して、白朗の戦後が始まる。その釈放の日12月17日の6日前、12月11日に私は日本の片隅のド田舎で産まれた。昭和13年には徐州会戦を戦った父とその直後に結婚した母との間に。別に何の関係もない話であるが、白朗の戦後こそが大きく評価されなければならないと考えている私には、ちょっとしたこじつけの感慨もわくのである。(文責吉田)
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