小日向白朗学会 HP準備室BLOG

小日向白朗氏の功績が、未だ歴史上隠されている”真の事実”を広く知ってもらう為の小日向白朗学会公式HP開設準備室 情報など

今…虎視眈々と黙して洞穴に潜む時

2020-12-25 | その他
 この間まで政権トップにおられた方が「秘書が真実を隠して教えてくれなかった」…などという学園祭の演劇のようなセリフ劇を相変わらず設定コストが非常に高いと思われる舞台で演じているのは我が国のこと。ちょっと海を渡ったあちらの方では「本当の大統領選の結果はまだ出ていない」という声を有力メディア総動員で叩き潰そうとcollective powerが咆哮し続けている。そのほかにも、あちこちでdigital fascismも盛り上がりを見せているが、これは何もGAFAだけのことではない。こんな2020年年末の景色を眺めているとグローバリズムが断末魔の様相を呈しているようにしか映らないのは私だけだろうか。
 こんな季節には、静かにゆっくりと腰を落ち着けてコロナウィルスを避けるようにしながら虎視々として穴に潜んでいるのが一番であろう。それこそが小日向白朗翁が新宿の質素なアパート暮らしをしていた景色そのものと言えるのではないだろうか。歴史は繰り返し続けているのである。(文責:吉田)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

power and jurisdiction in the dominions of the tycoon of Japan

2020-01-31 | その他
次の文章をとりあえず読んでみていただければ幸いです。
 ・・・・Her Majesty has had and now has power and jurisdiction in the dominions of the Emperor of China and in the dominions of the Tycoon of Japan:
これは、THE LONDON GAZETTEというイギリスの大衆紙の記事です。その日付ですが、APRIL 28,1865とあるのです。つまり、江戸幕府の時代。慶応元年のことです。確かにイギリスはそれより10数年前から仕掛けてきています。それも着々と仕掛けを続けてきており、日本では「江戸時代」という区分の時代ではあったとしても、すでにイギリスの、それも大衆レベルの意識下においては中国と同列であるところの準属国?的な立ち位置と思われていたのでしょうか。皆さんはどう思われますでしょうか?。確かに中国ではアヘン戦争から20年余を経ており、そんな風に思われていた、といってもそう大きな違和感はないのですが…我が国も同列にある、この慶応元年4月というときに…それから155年を経た今日、我が国の実態はどうなのか。ちょこっと思いを馳せてみるのも一興です。小日向白朗翁でしたらどう思われるのか? 「どこに我が国の主権はあるのか?」と激怒されるか、さらに現在の我が国の指導者らについて「何ら変わらぬ植民地エリートに過ぎないではないか?」などと喝破されてしまうかどうか。
・・・・こちらもちょっと・・・日英修好通商条約(Treaty of peace, friendship and commerce, between Her Majesty and the tycoon of Japan)は日本時間1858年8月26日(安政5年7月18日)、イギリス代表のエルギン伯爵ジェイムズ・ブルースと江戸幕府の間に調印された日英両国の通商に関する条約。日本が結んでいた不平等条約の一つ。日本時間1859年7月11日(安政6年6月12日)に批准。
(文責:吉田)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満州、見果てぬ故郷

2019-03-27 | その他
 昨晩テレビを見ていたら「我が国の生命線」などという言葉が聞こえてきました。そう満州のことです。戦後生まれの私にとって、生まれた時にはすでに満州国は存在しなかったにもかかわらず、満州という言葉を聞くと、なぜか「故郷の香り」がするのです。なぜなのでしょうか。私は3人兄弟の末っ子。長男は日本で生まれ、おそらくですが、昭和16年に両親と3人で満州に渡ったのです。その地で長女が生まれました。戦後、おそらくですが昭和21年5月ころ、白龍丸に乗って引き揚げてきたのです。死ぬような過酷な環境の中で、おそらくですが、ソ連兵だけでなく一部の中国の人たちからも逃れるようにして帰ってきたのでしょう。日本の港(舞鶴)についてからも、長女が海に落ちそうになったり、はぐれてしまいそうになったり・・・・等々いろいろあったようです。
 つまり、私の姉は満州国の生まれなのです。満州での生活は大変にゆったりとしていたというか、余裕があったというか、恵まれていたような話を耳にしています。すでにどこかへ行ってしまいましたが、兄が自宅の中でくつろぐ写真を見たことがありますが、裕福な雰囲気の部屋を連想させるものでした。しっかり聞いてはいないのですが、そのころの父は炭鉱会社(「満州炭抗」らしいです)の管理職の仕事をしていたようなのです。当時満州は「異国」ではなく、「我が国の生命線」などという言葉で象徴されるように、「準・日本」といった感じだったのでしょう。
 国の政策としては俗にいうところの「棄民」、つまり、できれば満州にとどまるように…というものだったようなのですが、死に物狂いで帰ってきました。その時は家族が増えて4人になっていたのです。帰国後、両親は生活の再建にものすごい苦労をしたのです。それははっきりと耳にしています。どうにか息がつけるか、といった頃なのでしょうか、私は生まれました。いわゆるベビーブーマーであります。私の両親と兄、姉は満州とははっきりとしたゆかりがあるのですが、私は全く実感はないはずであります。にもかかわらず、「満州」という言葉を耳にすると「ふるさと」に似た甘ったるい感情がわいてくるのを禁じえません。私の姉の戸籍にははっきりと書かれています。生誕地は「満州国錦州省吐黙特中旗北票街南山区〇〇〇〇」なのです。どなたかこの地をご存知の方がいらっしゃったらぜひ聞いてみたいものと思っております。「どんなところでしょうか?」と。なぜなら、私のファミリーの見果てぬふるさとだからです。私と家族とのつながりが私の満州という一個の『幻想体』に対して醸し出す感情、それが原因なのでしょうか。
 残念ながら、生前の父からは具体的な話を聞いたことはないのです。父は昭和13年の2月から8月までの従軍日記を残していましたので、満州を家族(妻と長男)と渡る前に「徐州会戦」に従軍していたことは十分に伺われています。退役し帰国してから結婚し、長男を得てから昭和16年に満州へ渡ったのです。父は、おそらくですが、満州の地で家族とともに幸せな生活を営むことが出来るのではないか、という気持ちで満州に行き、しばらくはそう思っていたのではないかと。それこそが大いなる誤解といいますか、仕組まれた幻想(国家幻想)であることにまで想いを馳せることなく。白朗が憲兵隊に請われて渡った上海・金家坊99を拠点として活躍していた頃のお話です。(文責吉田)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする