昭和14年の暮れ近く関東憲兵隊司令官も務めた三浦三郎はこういった。「小日向君、上海で一仕事してくれんか」。これが金家坊99の活躍の始まりであった。因みに三浦少将は1893年生まれであり、白朗より七つほど年上になる。小日向の活躍を評価していた人物である。条件付きでこれを受けた白朗は魔都「上海」の謀略戦、諜報線の真っただ中に飛び込んでいったわけである。当時、青幇三大行として名をはせていたのが「杜月笙」を筆頭に黄金栄、張嘯林であり、彼らが大活躍していたというか、好き放題の所業を展開して一般庶民を苦しめていた。藍衣社、特務政治委員会、憲兵第三団など蒋介石一派のテロ集団やもともと日本軍隊によって承認されていた中国国民党特務委員会特工総部、いわゆるジェスフィールド76号などなどが、三つ巴、四つ巴のやりたい放題でほぼ無政府状態のようであったらしい。こんなところに乗り込んでいったわけである。
中でも、杜月笙とのやり取りが馬賊戦記には詳しく記されている。杜の矜持を傷つけることなく上海を出ていかせたのである。この辺の説得の仕方はやはり素晴らしいというほかない。表面的には友達として、しかし実際には生き死にをかけてのやり取りである。また、蒋介石一派の藍衣社の総帥、戴笠とは宿敵というべき存在であったにもかかわらず、馬賊戦記によれば「敵味方を超えた友情のようなものが生まれた」らしいのである。
難しいことはともかくとして、私はつくづく思う。「敵対する人間とは殺しあう」、これが戦争のロジックであろう。しかし、白朗は違う。敵対する人間を心酔させてしまうのである。殺さないで目的を達するのである。本来彼は「アジア人同士が殺しあってどうするんだ!?」、という気持ちがあったはずで、これこそが俗にいうアジア主義である。アジアだけが良ければよい、というものではない。民族主義も同じであると思うが、わが民族のかけがえのない価値は、異なる民族にとっても全く同じものがある、ということである。お互いが異なるものに敬意を表する、これが「アジア主義」の理念ではないだろうか。これを単なる「理想」としてではなく、死を賭して実行していたのが白朗であったと思う。
白朗でも日本の敗戦の時を知っていたわけではないであろう。まだまだ当地では羽振りを利かしていた大陸の日本軍であった。しかし、昭和19年1月、金家坊99での莫大な収入を惜しげもなく捨てて日本軍に対して引退を表明、上海を去ったのである。馬賊戦記ではこう記している。「もし彼が敗戦を金家坊で迎えたら、有無を言わさず銃殺されてしまったに違いない」。白朗の命強さ、勝負強さはいったいどこからきているか、私には計り知れない。(文責吉田)
中でも、杜月笙とのやり取りが馬賊戦記には詳しく記されている。杜の矜持を傷つけることなく上海を出ていかせたのである。この辺の説得の仕方はやはり素晴らしいというほかない。表面的には友達として、しかし実際には生き死にをかけてのやり取りである。また、蒋介石一派の藍衣社の総帥、戴笠とは宿敵というべき存在であったにもかかわらず、馬賊戦記によれば「敵味方を超えた友情のようなものが生まれた」らしいのである。
難しいことはともかくとして、私はつくづく思う。「敵対する人間とは殺しあう」、これが戦争のロジックであろう。しかし、白朗は違う。敵対する人間を心酔させてしまうのである。殺さないで目的を達するのである。本来彼は「アジア人同士が殺しあってどうするんだ!?」、という気持ちがあったはずで、これこそが俗にいうアジア主義である。アジアだけが良ければよい、というものではない。民族主義も同じであると思うが、わが民族のかけがえのない価値は、異なる民族にとっても全く同じものがある、ということである。お互いが異なるものに敬意を表する、これが「アジア主義」の理念ではないだろうか。これを単なる「理想」としてではなく、死を賭して実行していたのが白朗であったと思う。
白朗でも日本の敗戦の時を知っていたわけではないであろう。まだまだ当地では羽振りを利かしていた大陸の日本軍であった。しかし、昭和19年1月、金家坊99での莫大な収入を惜しげもなく捨てて日本軍に対して引退を表明、上海を去ったのである。馬賊戦記ではこう記している。「もし彼が敗戦を金家坊で迎えたら、有無を言わさず銃殺されてしまったに違いない」。白朗の命強さ、勝負強さはいったいどこからきているか、私には計り知れない。(文責吉田)