私は、
高野豆腐が何気に好きです。
口に含んで、そっと嚙合わせる歯の間から、ジワリと口の中に溢れる甘い煮汁の味、懐かしい。
子供の頃、九州の田舎の私が育った家の食卓には、高野豆腐がわりと頻繁に登場した。
高野豆腐と一緒に器に盛られるものは無かった。高野豆腐だけが一人分としては結構な量で盛られた。
夕飯担当のおばあちゃんの作る高野豆腐の味が、私の高野豆腐の味の定番。
大人になって、旅先でたまに出る、小さな高野豆腐。シイタケやさやえんどうなどと一緒に小さな器に盛られて出てくるそれは、私には薄味すぎてちょっと物足りなかった。
一口では食べきれない大きめの高野豆腐が結構な量で盛られた器が食卓に並ぶと、うれしかった記憶がある。
甘めでありながらも、しょうゆの味もしっかり染みて、それだけでご飯のおかずになった。
おばあちゃんが作る夕飯は、一汁三菜ならぬ二菜が常。
近くの魚市場でその日下ろされた新鮮な魚をリヤカーに積んでくる、魚売りのおばあちゃんから買った、海のものと自家栽培の畑でとれた季節の野菜の煮つけと決まっていた。
でも、それが美味しかった。😋
九州の甘めの醤油で煮つけた新鮮なサバや、カレイ、メバルに赤魚。
魚の煮汁で煮含めたとれたての旬の青物、サトイモなど。
まずいはずがない。
魚は多分、毎日のように食べたと思う。
そんな食卓の献立の中に助っ人として時々登場したのが、
切り干し大根、ひじきの煮つけ、ホウレン草やセリの白和え、卯の花、そしてこの高野豆腐で、二菜が常の食卓に変化をもたらす効果もあってか、私達兄弟は、これらのお菜を楽しんだ。
今思えば、質素な献立だったと思う。
そんな質素な毎日の夕飯に、「またこれか」などと飽きた事など記憶になく、美味しかったなと思いだすばかり。
アメリカの生活でも、時々食べたくなるのがこのお惣菜たちで、
その中でも、頻繁に作るのが高野豆腐。
肉を以前ほどに食べなくなった近頃のタンパク質の補充にもなるし。
日系スーパーで高野豆腐の特売でもあろうものなら、大量に買いだめる。
ただ、美味しい高野豆腐を作るのに、ずいぶんな量のお砂糖を使う事が、まあ、気にならないでもない。😅
その昔、まだ、だし調味料や何やらの便利品がなかったころ、だしはイリコ一本やりで、調味料は、しょうゆ、砂糖、塩、酢に味噌がすべてのおばあちゃんの台所で作られるおかずが、本当に美味しかった。それは、新鮮で旬のものをっ使ったというだけが理由ではないだろう。
全てが手作りだった時代、料理一つ作るのにも手間がかかった時代、野菜を畑から取って来て、煮て焼いて蒸してと、何十年もの間繰り返されてきた、何のへんてつもないシンプルな料理法で作られるお料理には、その土地で培われた時間の流れが凝縮され、美味しくなるようにと言う作り手の気持ちが込められて、そこら辺の一流と言われるレストランで出されるお料理の味とは比較できない、「味わい」がある。
今朝、昨日の残りの高野豆腐をあっためて口に含みながら、私はどうして高野豆腐が好きなんだろうかと、思いを巡らせてみたわけだ。
そして、
何より高野豆腐は、煮つけに尽きると、思っているのです。😊
それから、
いつまで、どこまで追い詰めたら気が済むの?
斎藤知事を悪人にどうしても仕立てたい背後関係でもあるのでしょうかね?
そもそもが、疑問でしかない。
公職選挙法で叩かれる人って、どうしてほんの一部の人なのだろうか?
全ての立候補者に対して、一斉に行われる調査でもなさそうで、なぜかメディアがしきりに追うのは、話題になった特定の人に絞られていると思えてならない。
公職選挙法が、当選者の追い落としであったり、落選者の政治生命断絶の目的に使われているとしか見えない。
斎藤さんへの追撃が収まる日が早く来ますように。