もうすぐ、アメリカでは学校が始まる。いや、もう今日から始まったところもある。
地域によって学校のスケジュールがまちまちであって、ここの町は今週の金曜日が初日となる。
日本の様な始業式(今もあるのかわからないけれど)はなく、
普通にクラスが始まる。ちょっと寂しいけど。
末の子が高校生になる。義務教育残り4年間の始まり。
学校の編成も、地域によって違っていて
ここは、小学校の建物で5年生まで、中学校の建物で8年生まで、
高校にあがって4年間である。地域によっては、1年から12年まで同じ建物で勉強したり
小学校が4年までだったりとかするわけだ。
でも、合計すれば日本と同じ12年間、これに幼稚園の1年間が義務教育になっているので
正しくは13年間となるのがアメリカの義務教育である。
彼は、すぐ上のお姉ちゃんとは4歳離れているので、高校を一人で通う事になる。
日本人の母親だからと言うわけではないだろうけれども、
彼は、小柄で、細くて、童顔、どう見ても高校生には見えない。
だから、いじめられるのではないかと、長男なんかは心配していたものだ。
問題が発生しやすいと言われる中学校を何とか、
大きな問題なしに卒業して、いよいよ高校生なのだ。
そんなで、ちょっと私も緊張しているところだ。
アメリカのパーティー文化を聞いた事があるだろうか。
日本の宴会と思えば良いのかもしれないが、
これが、アメリカではずいぶん早くから、生活の中に溶け込んでいる実態がある。
パーティー。つまり、何かの名目があって人が集まり、飲み食いをする場である。
飲み食い、ここが問題となる。
中学生や、高校生が毎週金曜日の夜、友達の家に集まり、いったい何をするのだろうか。
パーティーに呼んでもらえるという事は、人気者の仲間入りという意味を持つ。
「あの子は、ポピュラーなんだ。」という言い方をする。
ちょっとした人気者を子供たちの間ではこう呼ぶそうだ。
スパイダーマンに出てくる主人公の、ドジで目立たないピーター君なんかは、
ポピュラーの反対という事になるだろう。
つまり、パーティーに行くという事は子供たちの間では、自慢なのである。
このパーティーの延長線上に、高校卒業の前のプロムがあるし、
卒業式の日の夜、泊りがけで出かける卒業パーティーがある。
大人になれば、金曜日の夜はバーベキューパーティーとなるわけだ。
このパーティーの場が、お酒と麻薬の普及場所にもなっていると、私は思っている。
ここ数年、スマートフォーンが普及して、フェイスブックなどのソーシャルネットワークに
すぐ写真や影像が載せられるようになっったことから、
パーティーの場での子供たちの失態、いや、犯罪があからさまになっている。
子供たちのパーティーの実態が、いかに愚かなものであるかを
伝えるニュースが、今年も何度となくテレビで騒がれた。
ティーンエイジは、サーティーンからナインティーンのティーンがつく年齢を総称して言う言葉だと理解しているが、この年齢は、心も体も子供から大人に、移行する年齢、
いつまでも子供のつもりでいたら、えらい目を見る年齢だ。
知らなかったでは済まされない、つまり、大人と同じ様に、自分のとった行動に責任が問われる年齢となるのである。
パーティーの場で、お酒を飲みすぎ気を失った女生徒が、翌日になってネットにあがった影像から
自分の身に何が起こったのかを知り、愕然とするといったニュースにでてくる話は、
氷山の一角でしかないだろう。
私の娘の友人も、同じ目にあった子がいる。泣き寝入りである。
未成年でありながらお酒を飲んで酔っ払い、何もわからなくなった自分が悪い、
自業自得だと本人も、あきらめてしまうからなのか…。
お酒だけではない、タバコも、ドラッグも有りである。
何も、移民者や低所得者、黒人やスパニッシュの子供たちが多く通う学校だけが、そうではない。
高級住宅が立ち並ぶ、お金持ちの人達が暮らすエリアにある学校だって
実態は変わらない。
「朝から、お酒の臭いをさせて教室に入ってくる子がいるの知ってる。」とか、
「誰々さんは、ドラッグのやりすぎで学校で倒れて、親が呼ばれたんだ。」
ゲイの先生もいる。
授業を受けたくないけれど、仕方がないと我慢する。
授業中に、ミネラルウォーターのボトルに、お酒を入れて飲んでる子がいる。
トイレの中は、タバコの臭いが充満してる。
こんな話を子供から聞くたびに、学校に通うことが戦いなのではないかと、感じるのである。
もちろん、この様な問題を起こすのは、一部の生徒、
学生の多くは大学進学に向けて一生懸命だと信じたい。
だが、アメリカの高校生の未成年飲酒の問題は、ひどい。
なんで、若いうちからそんなにお酒を飲むのかい?
そんな高校に、息子がこの金曜日から通うのである。
娘たちは、一度もそんなパーティには行く事はなかった。
長男も、危うい時期はあったが、何とか乗り切った。
末の息子にも、何とか生き抜いて欲しい、そんな気持ちである。
地域によって学校のスケジュールがまちまちであって、ここの町は今週の金曜日が初日となる。
日本の様な始業式(今もあるのかわからないけれど)はなく、
普通にクラスが始まる。ちょっと寂しいけど。
末の子が高校生になる。義務教育残り4年間の始まり。
学校の編成も、地域によって違っていて
ここは、小学校の建物で5年生まで、中学校の建物で8年生まで、
高校にあがって4年間である。地域によっては、1年から12年まで同じ建物で勉強したり
小学校が4年までだったりとかするわけだ。
でも、合計すれば日本と同じ12年間、これに幼稚園の1年間が義務教育になっているので
正しくは13年間となるのがアメリカの義務教育である。
彼は、すぐ上のお姉ちゃんとは4歳離れているので、高校を一人で通う事になる。
日本人の母親だからと言うわけではないだろうけれども、
彼は、小柄で、細くて、童顔、どう見ても高校生には見えない。
だから、いじめられるのではないかと、長男なんかは心配していたものだ。
問題が発生しやすいと言われる中学校を何とか、
大きな問題なしに卒業して、いよいよ高校生なのだ。
そんなで、ちょっと私も緊張しているところだ。
アメリカのパーティー文化を聞いた事があるだろうか。
日本の宴会と思えば良いのかもしれないが、
これが、アメリカではずいぶん早くから、生活の中に溶け込んでいる実態がある。
パーティー。つまり、何かの名目があって人が集まり、飲み食いをする場である。
飲み食い、ここが問題となる。
中学生や、高校生が毎週金曜日の夜、友達の家に集まり、いったい何をするのだろうか。
パーティーに呼んでもらえるという事は、人気者の仲間入りという意味を持つ。
「あの子は、ポピュラーなんだ。」という言い方をする。
ちょっとした人気者を子供たちの間ではこう呼ぶそうだ。
スパイダーマンに出てくる主人公の、ドジで目立たないピーター君なんかは、
ポピュラーの反対という事になるだろう。
つまり、パーティーに行くという事は子供たちの間では、自慢なのである。
このパーティーの延長線上に、高校卒業の前のプロムがあるし、
卒業式の日の夜、泊りがけで出かける卒業パーティーがある。
大人になれば、金曜日の夜はバーベキューパーティーとなるわけだ。
このパーティーの場が、お酒と麻薬の普及場所にもなっていると、私は思っている。
ここ数年、スマートフォーンが普及して、フェイスブックなどのソーシャルネットワークに
すぐ写真や影像が載せられるようになっったことから、
パーティーの場での子供たちの失態、いや、犯罪があからさまになっている。
子供たちのパーティーの実態が、いかに愚かなものであるかを
伝えるニュースが、今年も何度となくテレビで騒がれた。
ティーンエイジは、サーティーンからナインティーンのティーンがつく年齢を総称して言う言葉だと理解しているが、この年齢は、心も体も子供から大人に、移行する年齢、
いつまでも子供のつもりでいたら、えらい目を見る年齢だ。
知らなかったでは済まされない、つまり、大人と同じ様に、自分のとった行動に責任が問われる年齢となるのである。
パーティーの場で、お酒を飲みすぎ気を失った女生徒が、翌日になってネットにあがった影像から
自分の身に何が起こったのかを知り、愕然とするといったニュースにでてくる話は、
氷山の一角でしかないだろう。
私の娘の友人も、同じ目にあった子がいる。泣き寝入りである。
未成年でありながらお酒を飲んで酔っ払い、何もわからなくなった自分が悪い、
自業自得だと本人も、あきらめてしまうからなのか…。
お酒だけではない、タバコも、ドラッグも有りである。
何も、移民者や低所得者、黒人やスパニッシュの子供たちが多く通う学校だけが、そうではない。
高級住宅が立ち並ぶ、お金持ちの人達が暮らすエリアにある学校だって
実態は変わらない。
「朝から、お酒の臭いをさせて教室に入ってくる子がいるの知ってる。」とか、
「誰々さんは、ドラッグのやりすぎで学校で倒れて、親が呼ばれたんだ。」
ゲイの先生もいる。
授業を受けたくないけれど、仕方がないと我慢する。
授業中に、ミネラルウォーターのボトルに、お酒を入れて飲んでる子がいる。
トイレの中は、タバコの臭いが充満してる。
こんな話を子供から聞くたびに、学校に通うことが戦いなのではないかと、感じるのである。
もちろん、この様な問題を起こすのは、一部の生徒、
学生の多くは大学進学に向けて一生懸命だと信じたい。
だが、アメリカの高校生の未成年飲酒の問題は、ひどい。
なんで、若いうちからそんなにお酒を飲むのかい?
そんな高校に、息子がこの金曜日から通うのである。
娘たちは、一度もそんなパーティには行く事はなかった。
長男も、危うい時期はあったが、何とか乗り切った。
末の息子にも、何とか生き抜いて欲しい、そんな気持ちである。