紛れもなく私のそれだ。この時ばかりは釣れた人の特権でお祭騒ぎ(糸が絡んで
無茶苦茶になること)を避けたかったら、周囲の人は糸を巻き取らなければならな
い。隣と絡み合い電気浮木が一緒にこちらに来る。これは大物だぞ、引きが違うと
心の中で呟きながら、足はその喜びの大きさからガタガタと震える。
巻けど横に斜めに走り回りそこらの糸を絡め続けた。竿は大きな弧を描き糸はパン
パンに張りリールを巻く手に力が入る。釣場では近くの人が大物を釣ったら網です
くい上けるという誰が決めた訳でもない仁義があり、網を持ち右だ左だと指図する。
が魚は思う方向には来ない。凡そ十五分はかかったのだろうか、やっとの思いで網
に入り岸に上がった。優に五十センチは超える大物だ。周囲の人に礼を言い魚の
始末と次の仕掛けづくりをする。
この時は沢山の他人の糸、電気浮木を一緒に釣り上げた。ちゃんと自分の仕掛け
を巻き上げておかないから、こういうことになるのだ.・・・仕方がない。これくらいの物
になると尾の近くに切れ目を入れて血抜きをするか眉間を一突きにして即死させ鮮
度を保つ。実測してみたら五十八センチあり未だ鱸とは呼んでもらえない大きさだ
ったがとても嬉しく帰り道が随分と短く感じた。
每夜毎夜の境水道通いは結構な釣果をあげた。一晚でセイゴを十数本は確実に釣
り上げ、妻の仕事は近所の人に配り歩くことがえた。翌日の仕事に差し支えのない
時を見計らつて帰路に着く、午前零時がその時間だ。道程は往復で百キロ位ある
が魚が釣れればこんなこと一つも苦痛だとは思わなかった。海の荒れた日は大物が
出やすい、今日は相当荒れているが行っても釣りになるかどうかと不安ながら出かけ
てみることにした。人が釣ってしまったら・・・と狭い了見と貧乏人根性、丸出しが本
当のところである。風は強く、時おり雨が混じって海は、といえば怒涛の如く流れて
いる。撟脚のすぐ側にしか投げる場所がない。数人の釣り人がそこをめがけて投げ
ている。浮木は大きな波間で見え隠れしとても釣りをする状態ではなさそうだなーと
思った瞬間、ズシンと手応えがあった。
浮木は全く当てにならないし釣れたのかな?とリ—ルを巻けば紛れもなく応信がある。
波に乗り上げると魚が宙に浮き、リールを卷くと急に軽くなリ次の瞬間はガツンと引っ
張られる。こんな光景が三度も訪れた。
何れも五十センチクラスのものばかりだった。この日ばかりはトロ箱を調達し廻り道を
して家に帰った。これはお婆ちゃんが未だ元気だった頃の古い話だが立町と角盤町
により一匹ずつ配り自慢方々の寄り道である。
こんな大漁は後にも先にも巡り合いがない。小物(三十センチクラス)は煮付け、塩焼
きよし。また、刺身、洗いが美味しい。松江では宍道湖で捕れたこのクラスのものを
針で小穴を開けそこに塩を塗し湿らせた和紙に巻いて焼く、奉書焼が名物である。爐
の奉書焼は級料理で料亭でしかお目にかかれない。