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komasaram
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水戸黄門の子孫は今でもいるのですか?
質問者:iaidebsu_777さん
徳川光圀直系の子孫となると今もいるかどうか怪しいですが、水戸徳川家の子孫なら今も健在です。
光圀は甥の綱條を養子にしており、戦国~江戸時代は甥や姪を養子・養女にすることはザラで、これで系図がややこしくなります。
回答日時:2011/7/16 16:44:05
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水戸黄門の子孫は今でもいるのですか?
質問者:iaidebsu_777さん
komasaram2009
下の回答にあるとおり、光圀の実子は四国高松に養子に行っており、『水戸黄門』では光圀の甥にして養子である綱條(つなえだ)が時々登場します。
光圀は水戸藩2代目藩主で、綱條は3代目。
途中を省きますと、水戸の9代目は天保から幕末にかけて水戸家の主だった徳川斉昭(なりあき)で、森繁久弥もこの人物を演じたことがあります
系図を見ると光圀のあとの水戸徳川家は光圀個人の子孫というより、養子の子孫、光圀の兄・頼重の子孫になります。
光圀の直接の子孫が今もいるか、わかりませんが、「水戸黄門」を「水戸家出身の中納言全員」の意味とすれば、初代藩主・頼房や幕末の斉昭も入りますから、光圀の兄の血統で「水戸黄門の子孫」は存続したことになります。
周知のごとく、水戸徳川家は幕末に最後の将軍、徳川慶喜を徳川宗家に送り込みましたが、その後の水戸家をウィキペディアなどを参考に検索して調べてみました。
水戸藩主
2代:徳川光圀(みつくに、1628~1700)
3代:徳川綱條(つなえだ、1656~1718)
(略)
9代:徳川斉昭(なりあき、1800~1860)→慶喜の父親。
10代:徳川慶篤(よしあつ、1832~1868)→明治維新の年に没。
11代:徳川昭武(あきたけ、1853~1910)→1871年廃藩置県まで藩主。
↓
その後の水戸徳川家
12代当主:徳川篤敬(あつよし、1855~1898)→特命全権公使、式部次長等。
13代当主:徳川圀順(くにゆき、1886~1969)→『大日本史』完成、貴族院議員。
14代当主:徳川圀斉(くになり、1912~1986)→財団法人水府明徳会会長。
15代当主:徳川斉正(なりまさ、1958~)→水府明徳会会長理事。
徳川記念財団のHPに徳川斉正氏の名前があります。
www.tokugawa.ne.jp/about_member.htm
読売オンラインHP>歴史を歩く>大日本史(水戸市など)
www.yomiuri.co.jp/e-japan/ibaraki/kikaku/018/1.htm
なお、江戸時代の将軍の場合、家康から7代家継までが初期徳川宗家、8代吉宗から14代家茂までの宗家は紀伊徳川家の血統、15代慶喜が水戸徳川家の出で、大政奉還のあとに徳川宗家を継承して宗家16代当主となった家達(いえさと)はまた紀伊徳川家の子孫のようです。
言ってしまえば、慶喜は家茂から家達までのつなぎ、ピンチヒッターだったのでしょうか。
余談ですが、水戸家14代当主、徳川圀斉(くになり、1912~1986)は森繁久弥
(1913~2009)と生まれた年が1年違い、生前は1歳違いでほぼ同世代だったことになります。しかし、森繁のほうが20年以上長生きしました。
一方の尾張徳川家は将軍を出す資格を持ちながら出すことなく江戸時代が終わり、愛知県の人たちの無念さは察するに余りあります。
幕末以降現在の徳川家はどうなっているんでしょうか?
水戸黄門が何人もいたって本当ですか?
回答日時:2009/11/14 15:16:04
編集日時:2009/11/14 22:51:47
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水戸黄門の子孫は今でもいるのですか?
質問者:iaidebsu_777さん
徳川光圀直系の子孫となると今もいるかどうか怪しいですが、水戸徳川家の子孫なら今も健在です。
光圀は甥の綱條を養子にしており、戦国~江戸時代は甥や姪を養子・養女にすることはザラで、これで系図がややこしくなります。
回答日時:2011/7/16 16:44:05
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水戸黄門の子孫は今でもいるのですか?
質問者:iaidebsu_777さん
komasaram2009
下の回答にあるとおり、光圀の実子は四国高松に養子に行っており、『水戸黄門』では光圀の甥にして養子である綱條(つなえだ)が時々登場します。
光圀は水戸藩2代目藩主で、綱條は3代目。
途中を省きますと、水戸の9代目は天保から幕末にかけて水戸家の主だった徳川斉昭(なりあき)で、森繁久弥もこの人物を演じたことがあります
系図を見ると光圀のあとの水戸徳川家は光圀個人の子孫というより、養子の子孫、光圀の兄・頼重の子孫になります。
光圀の直接の子孫が今もいるか、わかりませんが、「水戸黄門」を「水戸家出身の中納言全員」の意味とすれば、初代藩主・頼房や幕末の斉昭も入りますから、光圀の兄の血統で「水戸黄門の子孫」は存続したことになります。
周知のごとく、水戸徳川家は幕末に最後の将軍、徳川慶喜を徳川宗家に送り込みましたが、その後の水戸家をウィキペディアなどを参考に検索して調べてみました。
水戸藩主
2代:徳川光圀(みつくに、1628~1700)
3代:徳川綱條(つなえだ、1656~1718)
(略)
9代:徳川斉昭(なりあき、1800~1860)→慶喜の父親。
10代:徳川慶篤(よしあつ、1832~1868)→明治維新の年に没。
11代:徳川昭武(あきたけ、1853~1910)→1871年廃藩置県まで藩主。
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その後の水戸徳川家
12代当主:徳川篤敬(あつよし、1855~1898)→特命全権公使、式部次長等。
13代当主:徳川圀順(くにゆき、1886~1969)→『大日本史』完成、貴族院議員。
14代当主:徳川圀斉(くになり、1912~1986)→財団法人水府明徳会会長。
15代当主:徳川斉正(なりまさ、1958~)→水府明徳会会長理事。
徳川記念財団のHPに徳川斉正氏の名前があります。
www.tokugawa.ne.jp/about_member.htm
読売オンラインHP>歴史を歩く>大日本史(水戸市など)
www.yomiuri.co.jp/e-japan/ibaraki/kikaku/018/1.htm
なお、江戸時代の将軍の場合、家康から7代家継までが初期徳川宗家、8代吉宗から14代家茂までの宗家は紀伊徳川家の血統、15代慶喜が水戸徳川家の出で、大政奉還のあとに徳川宗家を継承して宗家16代当主となった家達(いえさと)はまた紀伊徳川家の子孫のようです。
言ってしまえば、慶喜は家茂から家達までのつなぎ、ピンチヒッターだったのでしょうか。
余談ですが、水戸家14代当主、徳川圀斉(くになり、1912~1986)は森繁久弥
(1913~2009)と生まれた年が1年違い、生前は1歳違いでほぼ同世代だったことになります。しかし、森繁のほうが20年以上長生きしました。
一方の尾張徳川家は将軍を出す資格を持ちながら出すことなく江戸時代が終わり、愛知県の人たちの無念さは察するに余りあります。
幕末以降現在の徳川家はどうなっているんでしょうか?
水戸黄門が何人もいたって本当ですか?
回答日時:2009/11/14 15:16:04
編集日時:2009/11/14 22:51:47
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