バイクも仕事も走ります。

バイクででかける。美味いものを食べる。は継続。弁理士の仕事のはなしを加えていきます。

ちまちました人にならないために 12

2022-06-15 22:40:30 | ひとりごと
時代は飛ぶ。2018年暮れくらい・・・だったか。

実際上、ここから本編だったりする。

途中の年代は飛んでしまっているが、大したことしてない。

社会人になって後、毎年、年末から年始にかけて、年賀状を見ると、気持ち悪くなる癖がついた。誰にも、私発で、年賀状を出すこともなくなった。旧知の人も離れていった。

仕事はなんとか食いつけていった。弁理士の試験だけは、一向にチャンスが回ってこない。試験時間にまわす時間がないのが悔しかったかな。

平穏に仕事してる生活のうちに不思議な現象におそわれた。その説明のために前回までの1~10で昔の情けない記憶を書いた。

2018年の時点でなにが起こったかを記載する。

普通に事務所内で仕事をしていた。

特許庁提出前のなんらかのチェックしていたんだと思う。

すなわち、明確に起きていた。

突然、

「みっちゃん、Bから年賀状もらってないやろ~」

の声が頭の中で聞こえた。

次の瞬間から、あのつらかったころの記憶が、どっと頭の中に押し寄せてきた。

目覚めている状態で、そんなことあるのかな。

ここから2月ほど、つらいだけだったあの時期のことが脳裏に流れている状態。昨日のことのように鮮明である。Bさんがいつも頭の中にいる状況。甘酸っぱいものではない。今の自分からすると、ただただ、鬱陶しい存在。ただ、当時の感情も多少はそのまま残っている。その辺のバランスが、妙である。

よくこんな状況、当時、耐えられたな、と自分の強さを妙に感心というか、変な気持ちだった。

夢にもBさんが出てくるようになった。

こんな感じ。

急ぎ足で歩いている。

薬学部の校舎が右側に見える。

(学生時代の私のようだ。)・・・目覚めた後の回想

その薬学部の玄関のドアが開く。

平日は全開になっている。

ということは、土曜日か日曜日。

誰か出てきた。

学生。

女の子。

誰であるかはすぐに分かった。

Bさん。

会うと気まずい人。

こっちに向かって来た。

心がざわつく。

(夢の中で感情が揺れ動くことは自分にとって珍しいことだ。)

すぐに目の前に来た。

屈託のない顔で笑っている。

しゃべりかけて来た。

こちらも笑顔(のつもり)を返す。

朗らかな応答がしばらく続く。

楽しいなぁ~。

夢の中で、そんな気持ちになるのは、やはり珍しいところ。

珍しいポイントの多い夢であった。

言葉のやり取りがしばらく続いた。

いつからなのか、Bさんの手に葉書があった。

おもむろにそのことについて何か言いはじめた。

「近藤さん、書いてあることの意味分かりました~?」

ニヤッとした顔になっている。

ハガキに書いてることを読みはじめた。

「・・・・・・・・」

覚えのある内容。

と言っても、いつからか意図的に記憶から消そうとしていたので、忘れていた内容。

夢の中ながら、ハッとする。

夢の中でハッとするいうのも珍しいな。

もう一度読みだした。

「・・・・・・・好きではない、・・・・・・・・・近藤さん・・・・・」

こんどは、「好きではない」と「近藤さん」が妙に耳に残る読み方。

ちょっと引っかかる。

読み終わって、また同じことを繰り返し始めた。

「・・・好きではない、・・近藤さん・・・」

上記の部分がさらに強調した読み方になった。

「好きではない」と「近藤さん」の間隔がより短くなったような。

何回も読み直しているうちに、「好きではない」と「近藤さん」だけ聞き取れるように。

「好きではない、近藤さん」

「好きではない近藤さん」

「好きではない近藤さん」

「好きではない近藤さん」

「好きではない近藤さん」

同じところを何度も繰り返す、Bさん

この夢も突然終わりとなった。

延々と繰り返された「好きではない近藤さん」

夢の中のBさんが発していたこと。

これを夢の中の耳で聞いていた。

しかし、夢ではなく、現実の私の耳に直接的に響く声

「好きではない近藤さん」

飛び起きた。

夢から覚めたが当然、Bさんがそこに現にいるはずはなく、誰かがいるわけでもない。

軽く怪奇現象やな。

この不思議な現象であったことがこの夢を忘れられなくなった要因の一つ。

夢の中で読み続けたハガキの内容。

もらった当時は嬉しさ半分、不愉快な面が半分。

複雑な気持ちだった。

これ1回で終われば、不思議な夢だな~ で終わるところ。

この後、相当な頻度でBさんの夢を見ることになる。

Bさん絡みの記憶は消したい。

しかし当時の無念の思いが相当強かったみたいだ。

無理やり記憶の底に沈めたところ、今になって浮上してきた、というところか。


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ちまちました人にならないために 10

2022-06-15 21:45:27 | ひとりごと
東京での転所を半ば諦め、転所先を大阪で探すことにした。

果たして拾ってくれるところはあるのか。

年齢も高くなってきたので、不安がある。

勉強も進んでいない。

朝日新聞の土日の求人に募集がよくでるので、実家に、土日の朝日新聞買ってくれるように頼んだが、なかなか、話が通じない。

半月ほど経過してやっと理解してもらって、朝日新聞を郵送してくれて、募集のあったsところに応募した。

大阪の事務所に2つ試験を受けた。

一方は比較的小規模。他方は大手。当時は、いろんな雑誌に求人も出ていた。

あと数所履歴書送ったが、履歴書送り返された。

試験受けたところはいずれも合格。

大手のほうは、試験のあと、その日のうちに飛行機に乗って東京へ。

実家に居ない間に合否通知があったらいけないので、自分のほうから電話をかけて聞いた。

あまりそういう人いないだろうが、不在だったし。

合格だった。

バイオ・化学が得意な事務所だったので、ようやく自分の専門分野に取り組める。試験勉強もより能率的になるだろう。

東京に戻ったのは、見切りで和歌山に帰ってくるため荷物等はそのままだった。本格的に荷造りして和歌山に帰る。

憂鬱な気持ちはなく、移り先が決まっての、東京撤退だったので、意気揚々としたものだった。

数日で荷物をまとめて和歌山に帰ってきた。

帰ったら、なにやら、大学の研究室から、ポスドクのMさんの、なにやらの祝賀会やると、の通知の葉書があった。当日だった。

大阪の大手の事務所に移ったので、特に、恥ずかしくないかな、ということと、懐かしくて、電話で当日連絡した。

電話でK先生が受けてくれた。歓迎されるみたいだったので、急遽参加。

すでに博士卒から3年経過の同級のKさんもいて、懐かしい顔合わせだった。

同じく、Mさんのグループに属していたBさんもいた。

Bさんのことはすっかり記憶から薄れていたが、顔を合わせると、やっぱり、気まずい思いもある。

Kさんに、Bさんを紹介される、という変な挨拶。覚えているけど・・・話はしたくな関係にはあったので、変な間がある。

Bさんも会社をやめて、薬局関係に行くとかなんとか。自分の未来には関係ないことなんで、こちらからさらに聞くことはなかった。

そんなこんながあった後、5月ころから、大阪の事務所に勤務。

3ヶ月弱の失業期間となった。

失業手当、若干もらう。

お金もなかったので、しばらく、和歌山から通勤。

バイクで、阪和線の駅に行って、そこから京橋まで。

紀州路快速は当時からあって、直で京橋まで行けたので、楽だった。早朝出発だったこともあって、余裕で座れてたし。

事務所の初日。

全体ミーティングがあった。

所長はいない。

変なミーティングやな。

自分の所属先は告げられていない。

5月の入所やというのに、新入りが大勢いる。

皆の前にずらっと並んで、ひとりずつ紹介される。

●●君です。化学グループのRさんのところに所属になります。

等と順番に紹介されている。

自分の番になった。

近藤君です。電子情報グループの所属になります。

耳を疑った。嘘や・・・

鏡はなかったが、変な顔してたと思う。

真偽を問うべき所長もいない。

初日から辞めるわけにもいかんし。

初日から2、3件渡された。電気会社

知らない会社ではなく、誰でも知ってる会社の案件。

内容が面白かったので、頑張ってやろう、かなと、切り替える。

次の日 所長が来た。

英語の成績が悪かったので、電子情報の国内グループに回したとのこと。ただ、電子グループに所属したままで化学関係もやっていい、とのこと。

めっちゃ恵まれている環境に感謝である。

ただ、二刀流はさすがにしんどかろうと思ったので、しばらくは、国内出願専門で行くことにした。こちらの師匠に当たる上司の作る文が秀逸だったので、まずは、この人のレベルを目指すことにした。

グループ内に新人に近い人が多いが、皆、そこそこ年齢に行っている人たち。みんな、英語、あかんかったんやな、、などと想像した。




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ちまちました人にならないために 9

2022-06-15 21:43:49 | ひとりごと
3月に会社を退社したのち、実家に帰る。

合わせる顔もないので、ゆったり3日ほどかけて400のバイクで帰る。

弟と妹がそれぞれ入社した年。長男が会社辞めて実家に帰る。かなり辛かった。

帰宅ののち、しばらくニート状態だった。当時は、ニートという言葉も一般的ではなかったが。シンプルに浪人と言ってたかな。

辞めた直後に大阪の化学系の特許事務所を受けたが、うまくは行かず。甘くはない。

当時は、朝日新聞の土日の広告欄に特許事務所の募集があるなどということは知らなかったので。

いざとなったら、薬剤師の資格使うしかないのかな、と思っていたところ、東京の人材募集の会社の人から連絡を受けた。

静岡の研究所の管理の副部長(その研究所の管理のトップ)が、辞めてしまった自分のことを気にかけてくれていて、再就職斡旋の人材会社に手を回してくれていた。

見てくれている人は、見てくれているのかな、と感謝しかない。

副部長は、あんないい奴を惨めな辞め方させてはいけない、、と言ってくれていたそう。

会社勤務当時、実はやる気そんなになかったが、真面目には勤めていたのを見てくれていたのだろう。

東京の特許事務所勤務時代に入る。

御殿場の会社を出た年の5月から翌々年の2月まで。2年弱になる。

分野は、機械系。

志望は専門を生かした化学系だったが、そう甘くはなかった。

仕事があるので贅沢は言えない。

あちらも自分を採用するのに、あまり本意ではなかったのではないかと思う。

分野は一致しないが、なんとか事務所で生き残って、弁理士試験も合格しなければ、いけない。チャンスはつながった!と意気込んで東京に向かう。

自分は、あまり、やる気に満ちあふれた顔をすることができないので、ここでも、あまりいいイメージはなかたのではないか。

パソコンで文字打ち込むことも慣れていない。パソコンのオンもどこを押せばいいのやら、フロップ-に保存はどうやって?のレベルだった。

弁理士は、所長一人

勤務時間は、黙々と仕事をしている。

嫌な感じの人は、誰もいない。みな和気藹々とした雰囲気。

悪口、陰口はない。

虚勢をはる必要もない。

研究職とはまったく違う世界。

特許の仕事は、なかなか慣れないもので、感じすらつかめない日々だった。

ここを追い出されたら行くところがなかったので、必死だった。そうは見えなかったかもしれないが。

ここでも、習得速度の遅さは発揮していた。

いつか、いつか、と思いつつ、こなしていた。

気力を振り絞っていたが、何がきっかけか分からないが、突然、気力がなくなってしまった。

自分の場合、突然、こういうことになる。

2年目の正月すぎに、東京の事務所を退所した。

ふがいなさ過ぎて、悔しかった。

ここでも自分は、なにもできなかった。

しばらく、東京の事務所で、化学関係で採ってくれないかと、粘ったが、うまくは行かず、地元の大阪の事務所を目指すことにした。
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ちまちました人にならないために 8

2022-06-15 21:40:40 | ひとりごと
社会人 製薬会社

当時 4月初日くらいに薬剤師の試験があった。

人事の人には強く勧められていたので、勝算はないが仕方なく受験

なんかいろいろ模擬試験みたいなの送ってもらったが、修論発表前なので、寝る時間確保に大変だった。そんな余裕がない。

グループとはほとんどコミュニケーションなかったが、今になって思えば、一体、なにしてた?

人事の人は、理系の事情知らない。

気は進まないが、一応、受けようとはしてた。ところが、試験当日、熱を出してしまう。

人事の人には、逃げたと思われただろうが、本当のこと

知らぬ間に無理を重ね、開放されたのが嬉しすぎたか。。

大学入るときも微熱に悩まされたので、長引かなければいいかな。

この年は、1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン

行くところ、災難がある。

会社の研修の第2部が、富士の、あの基地があったあたりと同じ場所なので、河口湖になっていた。

研修は非常に楽しいものだった。

大学の研究室のときみたいな、禍々しいものなかったし。

研修も終わって、御殿場にて勤務。

大学時代は悔しかったこと多かったので、挽回しようという気はあった。頑張ったほうかとは思う。

しかし、如何せん、大学時代に身につけるべきものを全く身につけていない点は否めない。

O大学大学院薬品化学専攻 のアドバンテージはまったくない。

3年くらいはなんとかごまかせると思っていたので、それまでに、違う道を見つけなければならない。しかも、周りに人に悟られないように。。

自分の趣味として、念願の400ccのバイク購入。

ヤマハのXJR400

暇をみては、出かける日々

1年目に、北海道に行くつもりが、青森でUターン。

2年目は、どこかには行ったと思うが、忘れた。

3年目に北海道に着く。

礼文島にも渡ったかな。

研究職を抜けて目指すべき道は、割と簡単に見つかった。

新人の年は、1年かけて、東京の王子の研究所に研修がある。

合成から薬理から病理から、、一通り済ますが、最後に、特許の研修があった。

弁理士、という職種を初めて知った。

自分が目指すべき道はこれかな、と直感があったので、すぐに取りかかる。

当時は、自前のパソコンもなく、携帯も所持していなかったので、どうやって情報集めたかその手段は忘れたが、静岡にLECがあったので、そちらで、週1くらいに、通学して、個室でビデオみて勉強した。

独学では、なかなか進捗悪かったが、とにかく、楽しかった。

本来的には勉強好きなほうなので。

残業もほどほどに、帰宅後、勉強、勉強、勉強。夢のある生活はいいな、。

あまり、そういう生活してると、その会社での出世は望めない。

あっという間の3年が経った。

ちなみに、薬剤師は、2年目の春に受かった。

そんなに勉強してなかったが、嬉しいものだった。

新聞にも載るが、御殿場で知ってるひと、見てくれる人は居ない。と思ってたら、会社で見てくれてる人がいた。

試験に受かる、というのはええもんだな。

淡々と、自分の勉強を帰宅後にしつつ、仕事も、一応、真面目にしてた。あとあとに、役に立つと思ってたし。何事も真面目にはする性分だったので。

ここでも、自分の習得速度、遅いな~、などと思ってたが。

3年目の年末くらいに、会社の景気が悪くなったとか。会社の主力製品を他社と共同で販売したところ、シェアがだいぶ食われたとか。。なにやってんだろうか。

そのしわ寄せで、のんびり研究している馬鹿どもから、営業に回す。。とか、なかなかな理屈で、何人かが、割を食うと。。。

やる気のない自分は、多分真っ先に、やられるだろうな、と思ってたら、やっぱり、当たった。

その頃には、転職のタイミング計ってたので、営業職の転勤は辞退して、退職することにした。

ふんぎりをつけるにはちょうどよかったか

本心では、あと1年居たら、そこそこの結果残せるかな~などと思ってたが。

追い出しコンパとかもしてくれたけど、ここでも、誰も、本心では惜しんではくらなかった。不徳のいたすところである。

東京の特許事務所にするか、大阪の特許事務所にするか、当てはなかったが、もう、覚悟を決めるほかなかった。

寮を出る。バイクに荷物を積んで、和歌山の自宅へ戻った。

なんか、無限に暇な時間がるのが、いたたまれなくて、3日ほどかけて家に。

楽しくはなかった。落ち武者気分だった。

しばらく、無職の覚悟である。
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ちまちました人にならないために 7

2022-06-15 21:35:07 | ひとりごと
M2

この1年はいい思い出がほぼない。

1日耐えれば、研究室を去る日が近づく。。それのみが楽しみだった。

修論の世話は、仕方なくみてやる、、みたいなことを毎週のように言われた。

心の底から腹立たしかったが、我慢した。

アメリカ帰りのMのために、2研室から追い出された。

用意された席は、4回生が座るような席。

屈辱的だった。

それも耐えた。というか、自暴自棄の境地のため。どうでもよかった。

自分の性格のため、腐らず過ごした。やる気に満ちあふれていたわけではない。仕方なく日々を過ごした。

年末。

これまでと同じように年賀状を書いた。

去年のことが思い出されて苦しかったが、なんとか書いた。

ムラ社会なので、ここは無理しないといけなかった。

1月の下旬 阪神大震災があった。

早朝だったが、経験したことのない揺れ。

明るくなったと同時に学校に向かった。

学校に対して、そんな義理あいもなかったが。

地震の前後で、自分の部屋のちらかり具合は全く変化なかったし。

1番のりだった。

いちばん立場の悪い自分が学校に1番のり。

教授側からいい思いをしてる人ほど遅くに来る。

世の中そんなものなんだろうな。

要領のいい阪大生一般。要領の極端に悪い自分

研究室の中がぐっちゃぐちゃになってる様子に、笑いがこみ上げてきた。ほかに誰もいなかったので、多分、声を出して笑ってたと思う。

天罰じゃ、ぼけ~~。。自然と、そんなことも言ったと思う。

その直後に、非常に強い余震がきた。早朝の一発めより大きいのではないか。悪い心は持たないことだな、と自らを戒めた。

修士修了まであと少し。

なんの得もない、誰の得もないが、結構、頑張った、つもり。

修論もなんとか終えた。

3月中旬。追い出しコンパ。

今年は、追い出される立場である。

前の年は、Bさんの件があったので、私だけ二次会の出席を避けた。

今年の追い出す側は、みんな居る。

みんな居ることはありがたいな~。欠けていると、嫌な思いするなぁ。。と思ってたが、去年、自分はそれをやった。

心証よくなかったな。1学年上の方々には、申し訳ないことしたな。

学校を去る日が来た。

もう、嫌な思いをすることがないので、清々しい。

ただ、追い出す側も、私が去ることについて、清々しい思いをしてるんだろうな、と思うと、腹立たしい。

自分が去ることについて、寂しいとか、悲しいとか思ってくれる人は誰もいない。つらいことである。

前年、Bさんとは口もきかない間柄になってしまったが、お別れの日は、独りで悲しい思いはしていた。

自分には、そういう人はいない。

不徳と無能。

自分を呪うしかない。

学校を出ると、4月から、就職先の静岡の御殿場へ。

関西から出たくない一心で、大学受験を関西の学校に絞って臨んだが、結局、仕事は、東に行くことになった。

まっさらで再出発するには、ちょうどいいかな。

会社の人事の人から、薬剤師の試験を受けるように強く言われていたので、残り少ない勉強時間ながら、忙しかった。感傷に浸る暇なし。


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