先月は知り合いの個展に二つ行った。
一つは、日下文 日本画展(静岡信用金庫本店ギャラリー・6/8まで)
もう一つは、原田さやか写真展「私のとなり」(スノドカフェ・終了)
日下さんとは1年くらい前に知り合っては居たのだけれど、結局龍華寺の涅槃図を含め、拝見する機会が無く、旧作からの流れを概観するような今の個展に出かけることになった。
写真で見ていた涅槃図と、模写のようなことをしている、という情報で、なんだか古典や仏画をイメージしていたので、早速に裏切られる。岡本太郎のような抽象画や写真転写をつかった大きな作品。あとで聞いたら鉄の錆やコーヒーまでつかっているとか。
「模写」の近作には、京伝の善玉悪玉(実際には国芳バージョンからの模写らしい)があったり。
古典を写し取りながらいま・ここにある自己をどう表現していくのか、と言う問題は、あらゆる芸術、否、芸術に限ったことではなくて、人間の営みの中の重要な何かなのだと。
そのうえで、しかし、この、ある種の安定感に微妙な違和感を覚えるのは、もっと前の作品の--多分それはそれで、様々な先人たちの技法を「まねぶ」作業の中から生まれたものなのであろうけれど--、抑えがたい何物かの得体の知れない力みたいなものの方に惹かれてしまうのは否定しようがない。
お会いした日下さんのもつ朗らかさや安心感よりも、切なさや痛みを感じさせられる数年前の作品に、何かしら感情移入してしまうのだろう。
それぞれの作品の前で、作家と、或いは親しい人たちと、ずっと語り合いたいな、と思ったのでありました。
古典模写の流れが、これからどうなっていくのか、この先に期待しています。
さてその「感情移入」というのがクセモノで。
原田さんの写真展は、「私のとなり」と言うタイトル通り、かなり私的な材料が扱われている。一見アノニマスな情景も、親しい人たちにとっては「どこそこの何」、であったりするような。
そして、例えばmixiでの恐らく友人であるだろう人たちの感想を読みながら、そういうことは感じなかったなぁ、とおもう自分を省みる。
いくつかの作品で、あ、この切り取り方、良いな、と思うことはあった。しかし、多くの作品に見える私生活の一コマひとコマは、恐らく普遍的な表現として成り立っていないのではないか。
原田さんとは、前に一度だけお会いして、そこで、結婚式場の写真でかなり評価されている、と言うようなことを伺った。ちょっと、そういうことを関連づけたくなった。
きっと、作家と被写体との関係を有機的に取り結ぶ術を、彼女は持っているのだろう。
それはとても大事なことだ。
しかし、さて、それは、市販される写真集やパブリックな空間での展示に向いているのかどうか。
勝手に失礼なコメントを言い散らかして申し訳ないのだけど、彼女の真摯な、そしてフレンドリーな笑顔をおもうと、被写体と向き合いながら手渡しできるようなコミュニケーションの中で深めていって欲しいなぁ、と思うのでありました。
その意味で、今、彼女が選んでいる結婚式の、というのは、おそろしく的確なんだろう。
そういう、プライベートな情景が、私家版の写真集になっていくのを想像するのは愉しい。
その上で、極私的表現が突き抜けた先に、新しい普遍性が現れてくることに期待。
一年前、身体表現のことをあれこれ思いめぐらし、いまもう一度絵画や写真という、随分前から親しんでいたはずのメディアに再会しながら、自分の授業や研究や、生き方その物をもう一度考えなきゃな、とおもってみたり。
表現、コミュニケーション。
ありきたりな言い方だけれど、奥が深い。
一つは、日下文 日本画展(静岡信用金庫本店ギャラリー・6/8まで)
もう一つは、原田さやか写真展「私のとなり」(スノドカフェ・終了)
日下さんとは1年くらい前に知り合っては居たのだけれど、結局龍華寺の涅槃図を含め、拝見する機会が無く、旧作からの流れを概観するような今の個展に出かけることになった。
写真で見ていた涅槃図と、模写のようなことをしている、という情報で、なんだか古典や仏画をイメージしていたので、早速に裏切られる。岡本太郎のような抽象画や写真転写をつかった大きな作品。あとで聞いたら鉄の錆やコーヒーまでつかっているとか。
「模写」の近作には、京伝の善玉悪玉(実際には国芳バージョンからの模写らしい)があったり。
古典を写し取りながらいま・ここにある自己をどう表現していくのか、と言う問題は、あらゆる芸術、否、芸術に限ったことではなくて、人間の営みの中の重要な何かなのだと。
そのうえで、しかし、この、ある種の安定感に微妙な違和感を覚えるのは、もっと前の作品の--多分それはそれで、様々な先人たちの技法を「まねぶ」作業の中から生まれたものなのであろうけれど--、抑えがたい何物かの得体の知れない力みたいなものの方に惹かれてしまうのは否定しようがない。
お会いした日下さんのもつ朗らかさや安心感よりも、切なさや痛みを感じさせられる数年前の作品に、何かしら感情移入してしまうのだろう。
それぞれの作品の前で、作家と、或いは親しい人たちと、ずっと語り合いたいな、と思ったのでありました。
古典模写の流れが、これからどうなっていくのか、この先に期待しています。
さてその「感情移入」というのがクセモノで。
原田さんの写真展は、「私のとなり」と言うタイトル通り、かなり私的な材料が扱われている。一見アノニマスな情景も、親しい人たちにとっては「どこそこの何」、であったりするような。
そして、例えばmixiでの恐らく友人であるだろう人たちの感想を読みながら、そういうことは感じなかったなぁ、とおもう自分を省みる。
いくつかの作品で、あ、この切り取り方、良いな、と思うことはあった。しかし、多くの作品に見える私生活の一コマひとコマは、恐らく普遍的な表現として成り立っていないのではないか。
原田さんとは、前に一度だけお会いして、そこで、結婚式場の写真でかなり評価されている、と言うようなことを伺った。ちょっと、そういうことを関連づけたくなった。
きっと、作家と被写体との関係を有機的に取り結ぶ術を、彼女は持っているのだろう。
それはとても大事なことだ。
しかし、さて、それは、市販される写真集やパブリックな空間での展示に向いているのかどうか。
勝手に失礼なコメントを言い散らかして申し訳ないのだけど、彼女の真摯な、そしてフレンドリーな笑顔をおもうと、被写体と向き合いながら手渡しできるようなコミュニケーションの中で深めていって欲しいなぁ、と思うのでありました。
その意味で、今、彼女が選んでいる結婚式の、というのは、おそろしく的確なんだろう。
そういう、プライベートな情景が、私家版の写真集になっていくのを想像するのは愉しい。
その上で、極私的表現が突き抜けた先に、新しい普遍性が現れてくることに期待。
一年前、身体表現のことをあれこれ思いめぐらし、いまもう一度絵画や写真という、随分前から親しんでいたはずのメディアに再会しながら、自分の授業や研究や、生き方その物をもう一度考えなきゃな、とおもってみたり。
表現、コミュニケーション。
ありきたりな言い方だけれど、奥が深い。
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