今朝の朝日新聞記事。
鴎外「舞姫」のモデルは彼女? 洗礼記録発見、経歴一致 2011年3月10日5時13分
これは、2011/3/9付で刊行された六草いちか『 鴎外の恋 舞姫エリスの真実』講談社との言わば告知記事で、他の新聞にも掲載されているのだけれど、ちょっとおもしろい。
朝日新聞は(多分他の新聞も)昨年
「舞姫は15歳」説に新証拠 刺繍用型金にイニシャル 2010年11月15日17時43分
と言う記事を掲載している。
これは、11月19日にNHK(BS Hi)で放送された「鴎外の恋人~百二十年の真実~」の予告であり、NHKは、翌11/20に今野勉『鴎外の恋人―百二十年後の真実』 日本放送出版協会を刊行している。
今日の記事の中にも紹介されているように、エリスのモデル説はいくつかあって、特に昨年が『舞姫』120周年ということもあり、NHKの番組はそれなりのインパクトがあった。
レビューも概ね高評で、検索すると詳しく紹介したブログも出てくる(これとか、これとか)。
TV番組を制作した今野勉が参照にした“15歳説”は植木哲『新説 鴎外の恋人エリス』 (新潮選書)新潮社 (2000/04)で、植木は2010年4月、改めて『法学と文学・歴史学との交錯 (成文堂選書)』成文堂(リンク先に詳細目次あり)を刊行し、法律学者の実証研究を誇った。
ルワンダ報告の記事で、歴史記述やエスノグラフィーの事に触れたけれど、実は私の手元には、裁判に於ける事実認定や判決文の書き方といった、法曹関係の本も少しある。
事実の認定と正確な表現、と言う問題は、至る所に出現し、それぞれに鍛えられてきたわけだ。
六草説は、アニバーサリーイヤーに間に合わなかった訳だけれど、それでも記事を読む限り、蓋然性と言う意味で、かなりいけるんじゃないかと思う。
さて、此処で我々が考えなければならない問題はなんだろう。
新聞社は発表された新説に対して疑問も持たず、検証もせずに、実にタイミング良く垂れ流しているんだな、とか、NHKは5月に『鴎外の恋人』のDVD発売予定だけれど大丈夫だろうか、と言った下世話な部分も注目だけれど、そして、新しい説でエリスのモデル論に決着が付くのか、と言うのもそれなりに大事なことだけれど、もっとずっと重要なのは、“歴史学的方法の信頼度”ということだ。
放送作家はともかく、法学者として1年前に勝利宣言をした植木は反論するか、あるいは六草の努力を讃えるだろうか。
歴史学でも、文学でも、こういう“論争”は無数にある。
私の身近なところでは、『奥の細道』芭蕉自筆稿本の一件とか。
“物証”が出れば一件落着ではないのか、と思われがちだけれど(そして多くの場合確かにそれで解決するのだが)、その“物証”の証拠能力を評価するのは人間だ。
機械や化学調査なら正確だ、と言いたいのではないけれど、それでも、最終的に判断するのは人だ。
“15歳説”は、センセーショナルで“ドラマ性”があり、綿密な検証を経ている。しかし、肝心の部分で飛躍を許しているようにみえる。
特に政治的意図があるとも思われない、この手の検証作業でも、我々は、与えられた資料の評価で間違いを犯す。
“正解”の検証が不可能な暗号解読作業では、結局、蓋然性の高さ(それを評価するのもやっぱり人間)でしか判断できない。
事実とは、そう言うモノだ、としか言いようがない。
そして、“文学”研究として大事なのは、そう言う“作者”の周辺情報の更新が、作品の解釈に何をもたらすのか、ということだ。
新しい本が届いたらゆっくり考えよう。
アカデミー賞作品賞を受賞した「英国王のスピーチ」は「真実」ではなく、歴史の歪曲だという批判。
アメリカの日本担当官は更迭されたけれど、“事実”はどうだったのか。
“真意”については櫻井よしこの見解にも見るべきところがある。
書かれた物が歴史であり事実であるのか、と言う、一見些細に見える疑問が、実は本質的な問いかけになる。
川田順造『日本を問い直す 人類学者の視座』は、歴史をどう捉えるのか、と言う問題についても、前に書いたルワンダのことを考える視座としても、やっぱり示唆に富んでいる。
鴎外「舞姫」のモデルは彼女? 洗礼記録発見、経歴一致 2011年3月10日5時13分
これは、2011/3/9付で刊行された六草いちか『 鴎外の恋 舞姫エリスの真実』講談社との言わば告知記事で、他の新聞にも掲載されているのだけれど、ちょっとおもしろい。
朝日新聞は(多分他の新聞も)昨年
「舞姫は15歳」説に新証拠 刺繍用型金にイニシャル 2010年11月15日17時43分
と言う記事を掲載している。
これは、11月19日にNHK(BS Hi)で放送された「鴎外の恋人~百二十年の真実~」の予告であり、NHKは、翌11/20に今野勉『鴎外の恋人―百二十年後の真実』 日本放送出版協会を刊行している。
今日の記事の中にも紹介されているように、エリスのモデル説はいくつかあって、特に昨年が『舞姫』120周年ということもあり、NHKの番組はそれなりのインパクトがあった。
レビューも概ね高評で、検索すると詳しく紹介したブログも出てくる(これとか、これとか)。
TV番組を制作した今野勉が参照にした“15歳説”は植木哲『新説 鴎外の恋人エリス』 (新潮選書)新潮社 (2000/04)で、植木は2010年4月、改めて『法学と文学・歴史学との交錯 (成文堂選書)』成文堂(リンク先に詳細目次あり)を刊行し、法律学者の実証研究を誇った。
ルワンダ報告の記事で、歴史記述やエスノグラフィーの事に触れたけれど、実は私の手元には、裁判に於ける事実認定や判決文の書き方といった、法曹関係の本も少しある。
事実の認定と正確な表現、と言う問題は、至る所に出現し、それぞれに鍛えられてきたわけだ。
六草説は、アニバーサリーイヤーに間に合わなかった訳だけれど、それでも記事を読む限り、蓋然性と言う意味で、かなりいけるんじゃないかと思う。
さて、此処で我々が考えなければならない問題はなんだろう。
新聞社は発表された新説に対して疑問も持たず、検証もせずに、実にタイミング良く垂れ流しているんだな、とか、NHKは5月に『鴎外の恋人』のDVD発売予定だけれど大丈夫だろうか、と言った下世話な部分も注目だけれど、そして、新しい説でエリスのモデル論に決着が付くのか、と言うのもそれなりに大事なことだけれど、もっとずっと重要なのは、“歴史学的方法の信頼度”ということだ。
放送作家はともかく、法学者として1年前に勝利宣言をした植木は反論するか、あるいは六草の努力を讃えるだろうか。
歴史学でも、文学でも、こういう“論争”は無数にある。
私の身近なところでは、『奥の細道』芭蕉自筆稿本の一件とか。
“物証”が出れば一件落着ではないのか、と思われがちだけれど(そして多くの場合確かにそれで解決するのだが)、その“物証”の証拠能力を評価するのは人間だ。
機械や化学調査なら正確だ、と言いたいのではないけれど、それでも、最終的に判断するのは人だ。
“15歳説”は、センセーショナルで“ドラマ性”があり、綿密な検証を経ている。しかし、肝心の部分で飛躍を許しているようにみえる。
特に政治的意図があるとも思われない、この手の検証作業でも、我々は、与えられた資料の評価で間違いを犯す。
“正解”の検証が不可能な暗号解読作業では、結局、蓋然性の高さ(それを評価するのもやっぱり人間)でしか判断できない。
事実とは、そう言うモノだ、としか言いようがない。
そして、“文学”研究として大事なのは、そう言う“作者”の周辺情報の更新が、作品の解釈に何をもたらすのか、ということだ。
新しい本が届いたらゆっくり考えよう。
アカデミー賞作品賞を受賞した「英国王のスピーチ」は「真実」ではなく、歴史の歪曲だという批判。
アメリカの日本担当官は更迭されたけれど、“事実”はどうだったのか。
“真意”については櫻井よしこの見解にも見るべきところがある。
書かれた物が歴史であり事実であるのか、と言う、一見些細に見える疑問が、実は本質的な問いかけになる。
川田順造『日本を問い直す 人類学者の視座』は、歴史をどう捉えるのか、と言う問題についても、前に書いたルワンダのことを考える視座としても、やっぱり示唆に富んでいる。
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