しかし今月はよく雨が降りますね~。板橋マラソン前になかなか思うように練習できないのが痛いものです。
さて、本日は私のレース回想記、1997年11月の横浜マラソン編の続きとなります。
クラブの「ハーフマラソン選手権」として出場した97年の横浜マラソンは私にとっては当時の師匠(クラブの初代運営代表)からの初勝利を目指し、気合い十分にてスタートラインに立った。この師匠は当時ハーフを常に「1時間32分」とあまりに安定したタイムで走っていたが、私はタイム的にも自己ベスト(当時のベストは94年の小川和紙マラソンでの1時間31分)を狙ってのレースとなった。90分を切れば当時のクラブで「最強」といわれたエースの先輩(クラブの前運営代表)からも勝利、「クラブハーフ選手権」優勝のチャンスもあったからである。
いよいよスタート。私はクラブメンバーの中でも最前列の方からスタートした(当時はネット計測もなく記録はグロス1本勝負であった)。 4分15分ペースも刻む。調子はすごく良いと感じた。10kmまではメンバー先頭を走っていた。
しかし、10kmでエースの先輩に追い付かれた。キロ4分くらいで走っていたようである(実際のゴールタイムは1時間28分)。まあ、今回は先輩が直接の目標ではなかったため、無理に追うことはもちろんせず、とにかく師匠からの勝利だけを考えることとした。
しかし、12kmくらいから足取りも重たくなり始めた。14kmくらいで横を見たら、なんと師匠の姿が!!
ついに追い付かれてしまった。ここからしばらくは並走が続いた。ところが、脚に明らかな違和感が・・・。いまでは
フルではお馴染み、ピクピクである。残り3kmくらいでついに痙攣が起きた。おそらく走行中の痙攣はランナー生活で初経験であった。師匠の姿は徐々に小さくなり、ついに見えなくなってしまった。
それでも最後まで諦めずに走りきり、1時間33分でのゴールとなった。師匠は今回も1時間32分でゴール。1分差での敗北であった。そしてこのレースが結果的に師匠との最後の対決となり、ついに師匠越えを果たすことはできなかった・・・。
しかし、この一戦があったからこそ私はその後、さらに上を目指してさらにがんばることができたのだと思う。そして翌週、川崎のハーフは1時間31分台で自己ベストを更新、翌年2月に熊谷で初サブ90を達成した。
なお、メインの「クラブハーフ選手権」の方はハンデ戦として2位であった。「直接対決至上主義」時代において、間接的ながらエースの先輩から「勝利」できたことはまあ良かったと思うべきなのだろう・・・。
終わり
*ちなみに直接対決時代といってもレースが終わってまで対立していた訳ではもちろんなく、レース後は出場メンバー全員で中華街に行ったことは言うまでもありません。あしからず・・・(笑)
さて、本日は私のレース回想記、1997年11月の横浜マラソン編の続きとなります。
クラブの「ハーフマラソン選手権」として出場した97年の横浜マラソンは私にとっては当時の師匠(クラブの初代運営代表)からの初勝利を目指し、気合い十分にてスタートラインに立った。この師匠は当時ハーフを常に「1時間32分」とあまりに安定したタイムで走っていたが、私はタイム的にも自己ベスト(当時のベストは94年の小川和紙マラソンでの1時間31分)を狙ってのレースとなった。90分を切れば当時のクラブで「最強」といわれたエースの先輩(クラブの前運営代表)からも勝利、「クラブハーフ選手権」優勝のチャンスもあったからである。
いよいよスタート。私はクラブメンバーの中でも最前列の方からスタートした(当時はネット計測もなく記録はグロス1本勝負であった)。 4分15分ペースも刻む。調子はすごく良いと感じた。10kmまではメンバー先頭を走っていた。
しかし、10kmでエースの先輩に追い付かれた。キロ4分くらいで走っていたようである(実際のゴールタイムは1時間28分)。まあ、今回は先輩が直接の目標ではなかったため、無理に追うことはもちろんせず、とにかく師匠からの勝利だけを考えることとした。
しかし、12kmくらいから足取りも重たくなり始めた。14kmくらいで横を見たら、なんと師匠の姿が!!
ついに追い付かれてしまった。ここからしばらくは並走が続いた。ところが、脚に明らかな違和感が・・・。いまでは
フルではお馴染み、ピクピクである。残り3kmくらいでついに痙攣が起きた。おそらく走行中の痙攣はランナー生活で初経験であった。師匠の姿は徐々に小さくなり、ついに見えなくなってしまった。
それでも最後まで諦めずに走りきり、1時間33分でのゴールとなった。師匠は今回も1時間32分でゴール。1分差での敗北であった。そしてこのレースが結果的に師匠との最後の対決となり、ついに師匠越えを果たすことはできなかった・・・。
しかし、この一戦があったからこそ私はその後、さらに上を目指してさらにがんばることができたのだと思う。そして翌週、川崎のハーフは1時間31分台で自己ベストを更新、翌年2月に熊谷で初サブ90を達成した。
なお、メインの「クラブハーフ選手権」の方はハンデ戦として2位であった。「直接対決至上主義」時代において、間接的ながらエースの先輩から「勝利」できたことはまあ良かったと思うべきなのだろう・・・。
終わり
*ちなみに直接対決時代といってもレースが終わってまで対立していた訳ではもちろんなく、レース後は出場メンバー全員で中華街に行ったことは言うまでもありません。あしからず・・・(笑)
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