「成人」ランナー“フル完走112回”ひで会長の日記

フルマラソン完走112回まで到達! ランナー生活32年、ランナーズマイスターのシン・ランニングクラブ会長マラソン日記

思い出のレース記 1997年11月 横浜マラソン編その1

2012年02月11日 | マラソン
明日は赤羽ハーフマラソン、ハーフ完走100回目を迎える大会となります。
さて、私の「ハーフマラソン史」の中で最も激闘となった大会が1997年11月に出場した横浜マラソンといえます。そこで思い出のレース記の第2回としてこの横浜マラソンを回想いたします。


1997年11月に開催された横浜マラソンで、創設2年目の我がクラブにおいて歴史上唯一となるイベントが開催された。当時の主力会員全員出場により開催された「クラブハーフマラソン選手権」である。

現在の我々のクラブでは「個人の目標(自己記録や距離などへの挑戦)重視」、すなわちお互いが励ましあって自己ベスト、またはクラブ記録といった個人目標に挑戦することが重視されている。競い合うよりも仲間としてそれぞれの目標を応援しあえる環境ができあがってきたといえる。
私自身、先日にも書いた通り他のメンバーとの勝敗を気にしたり負けて悔しいとかはないし、純粋に仲間の活躍が我が身のように嬉しく思っている。

しかし、当時のクラブは個人目標(タイム)や記録争いもさることながら「同レベルのメンバー同士の直接対決」、すなわち同一レース、コースでの直接の勝敗が重視された時代であった。あくまでメンバー同士で同じレースに出場して他のメンバーに勝利することが名誉とされ、競争原理が強く働いていた時代であったといえる。私自身も当時はまだ20歳代で若かったこともあり、先輩からの直接対決での勝利にこだわっていた時代でもあった。

時代背景も異なるため(当時はまだランニングブーム前であり市民ランナーも競技志向が強かった)どちらの路線が良いかはさておき、当時のメンバー間にはお互いのライバル意識が非常に高かったといえる。よってそんな時代に開催されたこの選手権はその名の通り「どうせ勝負するならいっそ主力みんなで横浜マラソンに出てハーフでのクラブNo.1を決めよう!!」ということで企画された。現在では駅伝参加によるチーム戦こそあれ(これもあくまで「クラブ力向上」の一環として)、シングル戦でのこのような企画は当時ならではだったと思う。
(ただし、実際には当時のエースだった先輩はタイム的に頭1つ抜けた速さを持っておりハンディ戦(7分)ルールとなった。)

この選手権、すなわち横浜マラソンにはクラブから主力メンバー5名が出場し、当然私も出場した。ただし、当時の私にはこの選手権で1位になる、といった欲望は正直あまりなかった。 それよりも大きな目標があったから・・・。
それは、当時の私の師匠(クラブの初代運営代表)から初勝利すること! 直接対決重視の時代ということは、直接対決で勝利することが「恩返し」であると思っていたからである。
私はエントリーしてから師匠からの初勝利を目標に(横浜の後につくばにて初マラソンを控えていたこともあるが)、日々練習に取り組んでいった。

10月には5kmで初めて20分も突破して、万全な状態で当日を迎えることができた・・・。

続く
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