昭和の後半から平成を駆け抜けて、漸く自分が立ち上げた会社が安定して来た矢先、医師に宣告されてしまった。余命1年と。
悔しくて、悔しくて、病院の会計待ちでソファーに腰掛け今後の治療方針を決められずに途方に暮れてた。
支払いを済ませ、病院の正面玄関の内側の自動ドアが開き、左側にある掲示板に無意識に顔を向けた。ピアノ演奏会のポスターが貼られてた。隣のショッピングモールで30分後に始まようだ。余計な事は考えず、そこへ歩き出した。
平日の午後3時、そんなに人は居ない。10脚横並びになった、大して座り心地がいい訳では無い、ステンレス製の折り畳み椅子が4列あった。僕は、4列目の右端から4番目の椅子に座り演奏が始まるのを待った。
そんなに意識はしてなかったが、前に設置されたピアノに目を向けると、演奏する姿が見易い位置かもしれないと思った。
どうせなら、人も多い訳では無いので、2つ前の列の右から4番目の椅子に移動した。
まだ、演奏まで15分くらいあった。スマホで時間を潰しても良かったが、そんな気は起こらない。ピアノって、鍵盤を叩くとそれがピアノ線に当たって音が出る楽器で、こんなものを作り出した人間は凄いなぁと、ふと考え、目の前のグランドピアノを眺めてた。
よく見ると、どこにでもありそうなピアノではあるも、光沢があり普段から綺麗に手入れされてるのだろうと想像してた。主治医に告知された事を忘れる事が出来ていた。自分では気がついてなかったが。
「あのう、もう1つ前の席はいかがですか?私が演奏します。」
女性から声をかけられた。ドキっとしたが、とても嬉しかった。そして、爽やかな香りが鼻を通り抜けた。僕は無言で笑顔を見せながら先頭の席に移動した。
その女性は、他の人達にも声をかけて回ったが、先頭の席まで詰めて来る人は僕だけだった。残念ながら、ふたり程立ち去る人がいた。
「お集まりの皆様こんにちは。それでは、お時間となりましたので、始めて行こうと思います。先月は夏休み期間でしたから、6年生の山田君に演奏してもらいました。今日は私のピアノ教室へ5歳から高校を卒業するまで通ってくれてた、宮内美香さんに演奏してもらいます。美香さんは、高校卒業後、西川音楽大学を出られて、現在はドイツに留学してます。」
ふっくらしたオバちゃんの話が長く感じ、その横に立つ宮内さんに見惚れていた。
髪の毛はダークブラウンに染めてるのかな?ポニーテールは似合ってるな。メガネも可愛らしい。オフホワイトのカットソーに黒のボタンを掛けてないカーデガン、黒の膝上3cmくらいのタイトスカート。飾らないシンプルな綺麗さが際立って見えた。このオバちゃんの側だから余計に細く見えるな。僕の脳はその声、聴覚刺激を選択知覚しないでいた。久し振りに女性を見惚れていた。
演奏が始まった。椅子の座面を浅めに座り、綺麗に骨盤が立ち上がり、殿部の丸み、腰椎の前方への弯曲。美しい曲線だ。そしてピアノに向かう真っ白な大腿、程良く締まった脹ら脛。ここも美しい曲線。
鍵盤を叩く指は細長く、時にはゆったり、時には速く、でも、滑らかに、柔らかく動いている。ピアノが奏でる音を楽しんでるようだ。
その動きに対して、肘、肩の位置は止まってる。首の真下へ優しく降りた上腕、鍵盤へ迷う事なく向かう前腕。『Love』のLの字を連想してしまう。そんな自分が恥ずかしい。
そして、クーパー靭帯がしっかり釣り上げ、おわんのように前に膨らんだ乳房も揺れない。官能的にも感じるし、母性的にも感じる。『なんて綺麗なんだ。』この言葉しか浮かんで来ない。誰もがそう思うだろう。恥ずかしがらないで良いんだ。自分に言い聞かせる。
その美しい佇まいは、僕を癒してくれた。語弊があると思うが、今までにも目にして来た女性の曲線である。ピアノの音色が僕の感覚を素直にしてくれたのかな。それと、死に直面してしまい感覚が研ぎ澄まされたのかな。目を閉じて、音を見る事にした。流石に見えやしない。また、自分を恥じる。
でも、良いか。こんな僕でも、音を楽しめてる。初めてかも知れない。生きてて良かったぁ。死ぬ前に経験出来て良かったぁ。
宮内美香さん、話しが長いオバちゃん、ありがとう。
「最後まで聞いて下さってありがとうございました。」
演奏を終えた宮内美香さんがわざわざ僕に声をかけてくれた。
「楽しそうに演奏されてましたね。僕も楽しかったです。ありがとうございました。今度はいつ演奏されるんですか?」
自然に、迷う事なく僕は言葉が出て行った。
「来週には、またドイツに戻るので。今日で終わりになるかと。ほんとに、最後までありがとうございました。来月は、また先生が他の方に演奏させると思います。毎月、楽しんで下さい。」
優しい声で宮内美香さんは答えてくれた。
病院の駐車場へ向かうと、少し冷たい風を感じた。秋なんだなぁ。冷静になれた。
僕は入院して治療を受ける事にした。正に闘病した。苦しかったぁ。でも、最後の10年は色んな事を感じ取れて楽しく過ごせた。死ぬまで生きて良かったなぁ。
おわり
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