第什弍話 信
「すみません、お一人ですか、お時間ありますか」
美人で派手ではないライトピンクなワンピースで白い靴下、赤茶のローファーを履いてて、プリムのエッジに白いレースがそれの五分の一の幅で飾られてるベージュの帽子を被った清楚な女性から声をかけられた。
僕は、高校生の時はラグビー部で右耳は潰れていて、身長は飛び抜けて高いわけではないが、肩幅が広く、腕と太腿は太くてゴツい身体をしているから、身の丈は実寸よりも五センチ増しくらいに見られる厳つい男である。だからといって、血の気は多いわけでない。でも、見知らぬ女性に声をかけられるなんて、思春期を迎え、女性を意識し始めた頃からは一度もなかった。
社会人になって、職場の協調性を乱さぬよう笑顔や会話の時の優しい声色を努力して作ってきて、自然にそれができるようになった頃だった。
「はい、独りですけど」
僕は驚き反面、嬉しさで照れ臭く、これからの予定を伝えられずにその一言しいえなかった。
「あの、二人でお茶しながら、私の話を聞いてもらえませんか、お茶代は私が払いますので、如何ですか」
とても慣れた口調でその女性は話を進めていった。
「えっ、ビジネス勧誘、宗教勧誘ですか」
僕は女性にそういわれると、表情を固めてしまい、疑いの目に変わってしまった。
「あっ、〇〇宗です。あなたにとってとてもいいことですよ、是非、私を信じて一緒にきて下さい」
女性は雰囲気を微塵も変えずいいよってきた。
「すみません、これから映画見るんです。そろそろ上映時間ですから、それと、神様は僕の心の中にいますので大丈夫です」
喜びのベクトルが一気に180°反転して、僕はその女性を無視して速足で映画館に向かった。
勿論、映画を見ることはウソではなくて、話題になっていた『シンドラーのリスト』を見る予定だった。その速足は、裏切られたと感じた小さな怒りが原動力となっていた。
映画は予想以上に感動した。ナチスドイツから多勢のユダヤ人を救い出したのに魂が共鳴したように震えた。その時、僕はふと思い出した。それと、小さな怒りが消滅していることに気がついた。
あの女の人、僕に宗教を勧誘してきた女の子、また、僕みたいな独りほっつき歩いてる男に声をかけてるのだろうか、断られることが多いだろうに辛くはないのだろうか。信じているからこそ、できる行為なのか。いや、もしも、一緒に喫茶店にでも入っていたら、その子の仲間の信者に囲まれて、入信しないと帰してもらえなかったのかもしれない。再び、声をかけてきた女の子のことを考えていた。
スーパーマーケットに寄って、蛸の刺身とチューブ入りのニンニク、ローストポークが乗っかったサラダ、ロング缶の六本パックのビールを買って、1DKの独り住まいに帰宅した。
ビールは冷蔵庫の中に入れ、冷凍庫からレンチンして食べられる鷄の唐揚げを五個、平たく白い皿に盛り、レンジの中に入れ、蛸刺しは小さ目の平たい紺色の皿に無造作に移し、チューブのニンニクとひとつまみの塩を振りかけ、オリーブオイルを回しかけた。鶏唐が温まりきらない前にシャワーに入り、汗を流したかった。さっぱりさせて晩酌の時間にしたかった。土曜日だから蛸刺しにニンニクを利かせた、お手製のカルパッチョにしたのを少しだけ胸躍らせて浴室に向かった。
首にフェイスタオルをかけて、タンクトップと短パン姿でロング缶をプシューっとすると、電話が鳴った。たまに、泊まりにくる、肉体関係も持つ、高校時代からの女友達だった。これからくるようだ。その子は偶然なのか、必然なのか、スープが冷めない距離のアパートに引っ越してきて半年くらいになる。
「お疲れさん、タダシ、ビール持ってきたよ。後は乾き物も」
「おりがとう、今日は仕事じゃないだ、一緒に呑むか」
「今週は、火曜日から昨日まで連勤してて、先輩にシフト代わってくれっていわれて、でも、久し振りに土曜が休めるのもいいものね」
彼女は、昼間はネイルサロンの経理をしてて、その店にバレないように、火曜と土曜の夜、週二回のペースでキャバ嬢をしている。将来は、自分でネイルサロンを開きたと考えていて、お金を貯めるためのWワークである。
「アヤカ、今日さぁ、映画見に行ったんだけど、会社から向かってる途中に可愛らしい女の子に声かけられてさぁ」
「えっ、タダシが」
「そうなんだよ、この俺がだよ」
僕の女友達のアヤカは少しジェラシーを感じたのか、可愛らしいという言葉に反応したのか、一瞬、眉間に皺を寄せた。
「結局、何かの宗教の勧誘みたいだったから断ったけどね、その子はのめり込んでるのかなぁ、信仰心が強いんだろうなぁ、堂々とした態度で、爽やかに話してきたんだ、少しムカっとしたけど、今は、すげぇなぁって思えて」
「その子の何が凄いの、可愛い子だから気に入ったの」
僕は気がつかなかったが、アヤカは機嫌を悪くしてた。
「いやいや、シンドラーのリストを見たんだけど、ユダヤ人を救った主人公が自分を信じて行動してさぁ、見事に救い出すわけだよ、なんだかその子の自然な仕草とか慣れた喋り具合とかが、あの子も自分を信じて行動してると思うと、すげぇなぁってね」
「タダシ、騙されるところだったんじゃない、色んな顔を持てるんだから女は」
「本当だ、アヤカもそうだな、アヤカもすげぇな、女の人は強かだ、悪い意味じゃないよ」
僕は女性の強さを実感していた。
「邪な強かさだってあるわよ、その子はどうかな、少なからずみんな邪心は持ってるからね」
「そうだな、あの子について行っても良かったかな、でも、映画みてそう思ったからな、今度会ったらついていってみようかな」
「騙されないように気をつけなさいよ」
僕とアヤカはその子が良い人なのかそうじゃないのか見極めることができずに、その話題はフェードアウトしていった。
その後、僕とアヤカは枕を共にした。互いに満たし、落ち着くと、また、その子のことが頭に浮かんだ。信じていい人なのか答えが出ない歯痒さが湧いてきた。アヤカに話してみようと顔を向けたら眠りに就いていた。
アヤカとその子を比べてみると大きな違いは、一緒にいる時間が明らかにアヤカの方が長いことと、困ったことがあった時は互いに助け合ってきたこと、そして、一夜を共にすることも許し合えてることを思い浮かべていた。アヤカを僕は、女性として、人間として、信じられる存在になっていたことに気がついた。アヤカのことを深く考えたことがなかったことにも気がついた。自分自身が鈍感に思えたが、とても安心感に包み込まれて、身体の力がいつもより抜けていく感覚を覚え、眠りに入っていった。
「アヤカおはよう、疲れてた、昨夜は直ぐに眠ったな」
「うん、夜の三連勤で疲れたみたい」
アヤカは、僕に顔を向けて僕の言葉を耳にすると、そういいながら僕の胸の中に顔を埋めてきた。
「アヤカ、俺の彼女になってくれないか」
「うん、いいよ。」
終