セイショウ坊のブログ

埼玉県飯能(はんのう)市 真言宗智山派・円泉寺住職です。
円泉寺ホームページにもブログがございます。

渋沢平九郎 飯能と越生

2021-08-30 07:53:09 | いろいろ
NHKで放送されている大河ドラマ「青天を衝け」で知られるようになった渋沢平九郎が、飯能戦争において籠もったのが能仁寺、自刃したのは越生町です。
平九郎は渋沢栄一の見立て養子?になっています。兄には富岡製糸場の初代工場長となった尾高惇忠がいます。
私はテレビをほとんど見ませんので、どのような展開であるかは知りません。


能仁寺は市内で一番の寺院です。埼玉県飯能市飯能1329
長嶋茂雄元監督が墓を契約しているようです。



飯能の街中は、多くの寺や家々が丸焼けとなりました。
しかし、この地は幕府旗本の関連があり、心を寄せる方が多かったそうです。

逃げる途中に平九郎を匿ったのが、ここの一家でした。飯能市長沢1562
今は平九郎茶屋として知られ、ここのうどんは名物になっています。



秩父に抜けるよう言われたようですが、越生方面に逃れました。

途中発見されてしまい、逃げ切れずに自決をしたのが、この場所です。
渋沢平九郎自決の地 越生町黒山




全洞院には平九郎の墓があります。越生町黒山674



平九郎のお骨は渋沢栄一の墓に移されましたが、栄一によって墓が作られました。






越生には平九郎の首がさらされました。
首は報恩寺に納められたようですが、実際の場所は分かりません。越生町越生704



墓地に行く途中に階段があります。
その右手に澁澤平九郎埋首の碑があります。



渋沢平九郎ウィキペディアlink



百庚申塚

2021-08-29 07:40:16 | いろいろ
前橋市惣社町の百庚申塚です。
ある石仏を探す目的で訪れました。

たくさんの庚申塔と共に、お不動様などの石仏も祀られていました。
今から15年前の写真です。



庚申講の盛んな地域だったのでしょう。



ここは利根川や佐渡街道が通っています。







お題目の庚申塔もありました。




この日の目的である、探していた石仏は見当たりませんでした。
情報が間違っていたのか、古かったのかも知れません。

すぐ近くは駐車しづらい場所ですので、広い場所を探してからお参りしてください。





子ノ権現の石仏

2021-08-27 08:38:58 | 他の寺社
子ノ権現は足腰守護の神仏として信仰されています。
延喜11年(911)の創建です。

今から2年前の写真です。
平日でしたが、多くのハイカーが訪れていました。






奥の院を参拝すると、近くに石仏がまとめて祀られています。




十一面観音菩薩






大日如来




手に経巻と念珠を持つ石像ですが、お地蔵様とは異なるようです。




子ノ権現は各地に祀られていますが、ここのが大元です。
かなり以前郷土史の方に聞いたのですが、廃仏毀釈の折には山深い場所でしたので、神社にならずにすんだと話していました。
特に天台宗は目の敵にされていましたので、明治維新以降に苦労した寺院が多かったとも言っていました。

各地に祀られている子ノ権現は神社や社になったところが多くあるようです。



無量寺の聖徳太子像

2021-08-25 07:48:41 | 他の寺社
平将門関連の神田山延命院(真言宗智山派)、日枝神社(元妙見神社)などを参拝した後に、無量寺の看板を目にしました。
日枝神社の近くです。
いまから9年前になります。

私が住職をする寺と同じ真言宗智山派に属し、鎌倉時代の創建のようです。




御本尊は大日如来です。




太子堂


聖徳太子像は正安3(1301)年11月11日に、仏師法印祐弁(ゆうべん)によって造像されたました。



聖徳太子は浄土真宗寺院に多く祀られています。
どのような由緒があるのでしょうか。

花の寺百ヶ寺にも選ばれていますので、枝垂れ桜の咲く春に参拝するのが良いでしょう。
近くには菅生沼があります。

平将門関連の地域は、成田山に参拝することを嫌います。
千葉県、茨城県の相馬地区の方々は、特に多いようです。

成田山は真言宗智山派の寺院ですから、ここの御住職も成田山関連の方々と付き合いがあるはずです。
私も成田山関連の寺院と付き合いがあります。
それどころか、檀家さんの葬儀を依頼することがあります。
入院中は随分助けていただきました。

平将門の子孫の御住職もいます。
この方は成田山はもちろん、佐野市の唐沢山神社にも参拝には行きません。
私は両方参拝しています。
平将門関連の当寺住職としては、かなりいい加減と思う人もいるのではないでしょうか。

近くの日枝神社は、優れた彫刻が施されてありました。





数多くの石仏が祀られています。



まいまいず井戸 狭山市の七曲井と堀兼の井

2021-08-23 08:14:44 | いろいろ
多摩北部から埼玉南部に見られる平地をカタツムリの殻を反対にした構造の井戸です。
まいまいず井戸ウィキペディアlink

三尺ほどの直径を垂直に掘る技術がなかった時代の井戸のようです。
「ほりかねの井」として平安時代にも都で知られていました。

七曲井
常泉寺観音堂の裏手にあるのが七曲井です。
前の通りは「鎌倉街道上道」の支道で河越館跡に続いています。





隣接する川は、後世に掘られたのかも知れません。


堀兼神社の堀兼の井
堀兼神社は社伝には、日本武尊が東国平定の際、浅間社を祭った伝えています。堀兼神社は社伝には、日本武尊が東国平定の際、浅間社を祭った伝えています。





武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり(藤原俊成)
など都人の和歌が知られています。

堀兼の井はここではなく、常泉寺観音堂の七曲井であるとする人もいます。

45年程前に京都の日野曼殊院で、小野小町化粧の井戸を見たことがあります。
構造が違いますが、これらより規模が小さい井戸でした。
おそらく上に、屋根がかけてあったのではないでしょうか。