2日続きの雨とボクちゃんが落ち着いているので過去のクマブログをサーフィングする事に。
茅葺き建築の写真が多いことに気付き、考えてみることに。
大内宿、白川、五箇山以外の名もなき場所の茅葺き屋根の写真が多々出てきます。
私の生家には2軒の藁葺き屋根の家があり(白川等は茅葺き)、3歳頃に突然物置小屋となっていた方に引っ越し自宅の方でなにやら行われていたことを僅かに記憶として残っている(その頃家に囲炉裏があり落ちて火傷をした記憶も)ので、その時現在の瓦葺きになったのだとおもわれます。(こちらは明治の初期?とおもわれる)
その時に引っ越した方の物置小屋は後々かなりの長い間、屋根替えや補修が繰り返され、良く手伝いをしました。。
物置小屋の増築されたと思われる奥座敷部分を解体縮小した際、屋根裏束柱に《文政〇〇年〇〇》の記述があったことで文政よりも古い時代の部分が今残っています。《その後さらに藁葺き屋根は取り払われ低くされトタン屋根に変貌して現在も物置小屋》
我が家の先祖は寺であり、この物置小屋に隣接して大きな伽藍がありここは住居とのこと。伽藍は畑の中に礎石のみ存在し、邪険にされている。(江戸末期~の廃仏毀釈で廃寺になった?らしいが記述は無い。焼き討ちにあって消滅、か?)
村史等に寺子屋をしていたとの記述があるので、この広い居間に子供たちが集まっていた? なんて想像したりしてワクワクしています。
座敷が総二階になつているのは養蚕のためと思われる(増築されたのもそのためではないか?)私の生家も長くそうであったし、大概の農家はそう。
いっとき、この江戸時代の物置小屋を解体し、土間の土、囲炉裏、黒く煤けた土壁・柱・建具をそのまま使って《土間・囲炉裏付き八畳一間》の庵を真剣に考えた時期もあり、楽しかったナ~~~。
オトナの事情で設計図何枚かで終わっています。し、実現化はほぼ皆無。
よる年波には〇〇です。
私の古民家・庭園好きは、幼少の頃のこんな深層心理が大きく影響しているのかもしれません。
なのに三宅島に建てている家は《なんだ??》と言われるかもしれませんが、これもヒトエニ==オトナの事情==と云うことで・・・・・
茅葺き屋根をご存知の方は多いと思われますが、藁葺き屋根って知ってましたか?
茅葺き屋根はヨシとかススキ類がつかわれますが、土地の狭いこの地域では毎年畑に麦を作りながら屋根改修時期に合わせてストックし、あるいは何軒かが協力しあいながらやっていたらしいです。
ヨシ等に比べ耐用年数は短いそうです。
PCがダメなので写真は、カメラ→wi-fi→スマホ→goo-blogサイズダウン→ブログ、の手順で書いています。が、元画像は白い紙なのに私のスマホではグレーの紙になっているし、画像は一様に暗い! (始めの写真は以前にUPしたPCのもの。)
AQUOSが悪いのか、はたまたSONYとの相性が悪いのか、ど~~したモンじゃろの~~~。 なんとかならないモンじゃろか?
どなたか助言をいただきたいです。
夕食を待つフタリ。