人は、いつから「愛」という言葉
を持つようになったのだろうか。
「愛もないのに抱き合うなんて、
ふしだらだ」とか、「人間のセック
スが他の動物と違うのは、そこに
愛がるということだ」とかいうの
は、わりと簡単に言われることだ。
かえってそこに、何が嘘くさいも
のを感じる。
「愛」なんて理由(しかも目に見
えない、あやふやなもの)を、わ
ざわざ人間がこしらえたのは、何
か後ろめたいことがあるからじゃ
ないのか、と。「好色」と呼ばれ
ないための、しかけじゃないか、
と。古代の人から比べれば、むし
ろ「愛」のないセックスは、時代
とともに増えているはずだ。
そんな現代と対比するような形
の歌。
そもそも人は、「愛」なんて面倒
なことを考えることもなく、抱き
合っていた。愛の表現として、と
か、愛を確かめる手段として、と
か、愛を深めるために、とか、そ
んな理由はいっさいない。ただ、
抱き合いたいから、抱き合ってい
た。では、その行為を、私たちは
「好色」と呼べるだろうか?
もちろん、ここには私たちの出る
幕なんて、用意されていない。彼
らを見守るのは、山であり河であ
る。のびやかで美しい風景だ。性
的な開放が行われたという、上代
の歌垣をふと連想する。
「言はず」「呼ばぬ」という二度
の否定。じゃあ言っているのは
誰?呼ばれているのは何?—
古代と裏返しの今を感じて欲しい。
「男女の情も、ひとへに逢ひ見る
をばいふものかは」と『徒然草』
一三七段は言った。男女の情愛
とは、ただひたすら契りを結ぶ
ことを言うものであろうか、と。
契ることができなかった辛さや
一人寝の寂しさもまた、恋の情
趣である。
兼好法師が、なんだかやせ我慢
しているみたいに見えてくる。
「花はさかりに、月はくまなき
を、そして男女は逢ひ見る」
古代が、ちょっぴりうらやましい。
を持つようになったのだろうか。
「愛もないのに抱き合うなんて、
ふしだらだ」とか、「人間のセック
スが他の動物と違うのは、そこに
愛がるということだ」とかいうの
は、わりと簡単に言われることだ。
かえってそこに、何が嘘くさいも
のを感じる。
「愛」なんて理由(しかも目に見
えない、あやふやなもの)を、わ
ざわざ人間がこしらえたのは、何
か後ろめたいことがあるからじゃ
ないのか、と。「好色」と呼ばれ
ないための、しかけじゃないか、
と。古代の人から比べれば、むし
ろ「愛」のないセックスは、時代
とともに増えているはずだ。
そんな現代と対比するような形
の歌。
そもそも人は、「愛」なんて面倒
なことを考えることもなく、抱き
合っていた。愛の表現として、と
か、愛を確かめる手段として、と
か、愛を深めるために、とか、そ
んな理由はいっさいない。ただ、
抱き合いたいから、抱き合ってい
た。では、その行為を、私たちは
「好色」と呼べるだろうか?
もちろん、ここには私たちの出る
幕なんて、用意されていない。彼
らを見守るのは、山であり河であ
る。のびやかで美しい風景だ。性
的な開放が行われたという、上代
の歌垣をふと連想する。
「言はず」「呼ばぬ」という二度
の否定。じゃあ言っているのは
誰?呼ばれているのは何?—
古代と裏返しの今を感じて欲しい。
「男女の情も、ひとへに逢ひ見る
をばいふものかは」と『徒然草』
一三七段は言った。男女の情愛
とは、ただひたすら契りを結ぶ
ことを言うものであろうか、と。
契ることができなかった辛さや
一人寝の寂しさもまた、恋の情
趣である。
兼好法師が、なんだかやせ我慢
しているみたいに見えてくる。
「花はさかりに、月はくまなき
を、そして男女は逢ひ見る」
古代が、ちょっぴりうらやましい。