新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

谷崎源氏を読むために 芦屋市谷崎潤一郎記念館「〈谷崎源氏〉三つの変奏」を訪ねて

2023年07月07日 | 源氏物語・浮世絵・古典・伝統芸能
 今日は過去に私が編集する小冊子に掲載した記事の再録です。2015年12月、故・岡田嘉夫画伯のご紹介で、芦屋市谷崎潤一郎記念館の特別展「〈谷崎源氏〉三つの変奏」を訪ねた際のレポートです(一部加筆修正しています)。この記事の再録にあたり、新たに「源氏物語・古典」というカテゴリを作成し、源氏物語など古典作品に関するエントリーをまとめました。

///////////////////

はじめに

 先般、岡田嘉夫先生にご紹介いただいた芦屋市谷崎潤一郎記念館を訪ね、特別展「〈谷崎源氏〉三つの変奏」を鑑賞してきました。

 かつて源氏物語に取り組んだ者として、また日本語に携わる者として、谷崎潤一郎は特別な存在です。

 谷崎はたんに源氏物語の現代語訳を成し遂げただけではありません。源氏研究者や日本画家とのコラボレーションを通じて、源氏物語絵巻を現代に甦らせた天才プロデューサーでもありました。この展示は戦前から戦後の出版・印刷・製本技術の歴史を学ぶ上でも、大変意義深いものでした。


谷崎源氏旧訳版について

 谷崎は人生で三度、源氏物語の翻訳に挑みました。それぞれ旧訳・新訳・新々訳と呼ばれます。

 最初の『潤一郎訳源氏物語』(旧訳)は、1935年秋から1938年にかけ、中央公論社から生活費のバックアップを受けながら「源氏に起き、源氏に寝<い>ねる」生活を送り、訳業に没頭して完成させたものです。

 目を引かれたのは、1939年発行の「潤一郎訳源氏物語 金文字入桐箱」でした。


 私はこの桐箱に、将軍家や大名家の婚礼調度でよく見かける源氏物語蒔絵箱を思い出しましたが、それこそが谷崎の意図したものでした。この現代語訳は、「嫁入り道具になるような豪華な源氏物語の本がほしい」という松子夫人のリクエストに応えるためだったといわれます。「お茶やお花やピアノのお稽古」と同じような教養あるブルジョア階級の女性のたしなみとして、源氏物語が求められたということでしょう。

 この桐箱入りの豪華愛蔵本は千部限定で一括前金払いのみで80円、普及版は各巻1円の計26円(一時払い23円)でした。当時の1円の貨幣価値を2千円とすると、愛蔵版は16万円、普及版は5万2千円といったところでしょうか。

 初期の計画時には発行部数3万部で、中央公論社は「5万部出れば成功」と考えていたようですが、初回配本は17万8千部。さらに第1回配本後の追加注文だけで5万部もあったといいます。この結果、本書は1939年最大のベストセラーとなり、莫大な印税収入は谷崎を経済的困窮から救いました。

 前年から刊行の始まった与謝野晶子の完訳版も、この年に刊行が完了しています。第二次大戦を目前にして巻き起こった源氏物語ブームは、社会現象として興味深いものです。世の中が殺伐としてきたからこそ、人々は古代のロマンスに別世界を求めたのかもしれません。

 完成した本は菊判の地模様の入った和装本で、各巻平均160ページから成ります。本文書体には、大きめの五号活字(約10.5ポイント=約15Q)を使用しています。四分アキ(字間が文字の大きさの1/4)でゆったりと組まれているので、文字が大きく見え、さらに余白もたっぷり取られています。これだけ贅沢な造りの本は、現代でも滅多にお目にかかれません。


出版統制と旧訳の諸問題

 旧訳版の第1回配本は1939年1月、全26冊の配本が完了したのは、太平洋戦争開戦を目前に控えた1941年の7月です。当時の社会情勢を考えると、この刊行は源氏物語の現代語訳を世に出せるかどうかの、ギリギリのタイミングでした。1938年に国家総動員法が施行され、用紙・インキ・針金・糸等の主要印刷製本資材の統制が進んでいたからです。紙をはじめとする資材の統制は、モノの面からの出版界統制の手段として最大限に利用されていました。

 こうした言論統制・出版統制は戦争開始とともに悪化し、1943年に『中央公論』で連載を開始した『細雪』は掲載禁止処分となり、上巻は自費出版で頒布されたものの、中巻は印刷頒布さえも禁じられてしまいます。 

 さらに当時は源氏物語が「不敬の書」と呼ばれた時代であり、源氏物語に関する多くの出版物が規制の対象となっていました。校閲を担当した国語学の権威・山田孝雄は、『源氏物語』翻訳の校閲を引き受けるにあたり、「以下の三つの記述を源氏物語の翻訳から削除すること」という条件を示し、谷崎は了解したとされます。


 一、臣下たる者(源氏)が皇后と密通していること
 二、皇后と臣下の密通で生まれた子が天皇に即位したこと
 三、臣籍たる者が、太上天皇に準ずる地位(准上皇)地位に昇っていること


 この三つを削除したら、源氏物語は源氏物語でなくなってしまうと言っても過言ではありません。谷崎は序文で、〈時節柄不適切な記述は除去したが、除去したのはわずかな部分であってこの部分を取り除いても筋に影響を与えることはない〉と釈明していますが、その「わずかな部分」こそが、「桐壺」に始まり「藤裏葉」に終わる源氏物語第一部にとって、食材にたとえるなら「希少部位」であり、千年以上この物語が愛読されてきた、いちばん美味しい肝にあたる部分なのです。

 谷崎が中央公論社の編集者に送った書簡が展示されていました。次のような内容です。

 「原稿二六〇頁
 最後の行より二六三頁第二行へ至る間は源氏物語中最も当局の忌避に触れる恐れあり
 非常に原文よりも省略したり、そのつもりにて御読み下さるべし、山田氏へもその旨伝へて下さるべし」
 (中央公論社・雨宮康蔵宛書簡 1936年3月2日)



 ここで省略されたのは「若紫」で藤壺女御が病のため里帰りをした際、源氏が執拗に関係を迫り、ついに妊娠させてしまう場面です。

 この書簡を読む限り、山田の指示ではなく、谷崎が自発的に削除しているように見えます。この書簡は「世間の反応をおそれた谷崎は、山田よりも広範囲に削除していた」という、近年の研究を裏付けるものかもしれません。


「卑怯な奴の裏を掻き鼻をあかしてやった」谷崎

 この書簡といい序文といい、源氏物語で最も背徳的で美しい部分を消去してしまって、谷崎はなぜこんなに平然としていられるのか。私は谷崎の考えていることがわからず、谷崎の書簡の前で、しばし考え込んでしまいました。

 谷崎のいうとおり、消去したのは量的にはたしかに「わずかな部分」です。

 第一部には、ほかにも、可憐な若紫の物語、夕顔や六条御息所の物の怪、須磨で起きる天変地異、夕霧と雲居雁の恋物語、名場面はたくさんあります。拙著でも、第一部の「玉鬘十帖」は昼のメロドラマのようで楽しかったとご感想をいただきました。そして、なによりも、「『若菜』を読まねば源氏を読んだことにならない」という折口信夫のことばどおり、源氏物語の核心は第二部です。そして、拒食症で死に至るヒロインが登場する第三部の「宇治十帖」は、現代の心理小説を思わせ、この作品は本当に平安時代に書かれたのかと思わせます。

 しかしながら、臣下たる者が皇后と密通していること、皇后と臣下の密通で生まれた子が天皇に即位したこと、臣籍たる者が、太上天皇に準ずる地位(准上皇)地位に昇っていること、これは源氏物語の肝に当たる部分です。源氏物語の第一部は、外戚政治で天皇を回る権力を持つに至った、紫式部のパトロンである藤原道長のプロモーション小説、プロパガンダ小説のようなものですから、ここは外せません。

 少し脱線します。ワイルドは自然が芸術を模倣するといいましたが、源氏物語の登場以降、ときにこの虚構の芸術作品を模倣するかのように進むことがありました。

 天皇の名前は「諡号(しごう)」または「追号(ついごう)」といって、死後与えられるのが通例ですが、後醍醐天皇は生前に自ら「後醍醐」と名乗っていた、あるいはそう名づけるよう指示を与えていました。これは、醍醐天皇の天皇親政の時代の復活をめざした天皇というのが命名の由来ですが、この醍醐天皇の時代を舞台にしたのが源氏物語であり、後醍醐の理想は光源氏だったわけです。
 江戸期まで天皇の正装は唐服でしたが、明治以降はナショナリズムから平安装束に改められますが、実物も史料も残されておらず、源氏物語絵巻などから再現したことも、その一例でしょう。

 検閲があるとはいえ、なぜ、そんな大事な部分を消去して、「除去したのはわずかな部分であってこの部分を取り除いても筋に影響を与えることはない」と谷崎は平然としていられたのか。

 当時の谷崎は松子夫人と結婚し、その娘や妹まで引き取り、さりとて美食などの贅沢もやめられず、経済的に厳しい状況にありました。検閲ばかりではなく、口語訳源氏物語の発禁を求める国粋主義グループの妨害活動もありました。そうした状況にあって、刊行を確実なものにしたいと考えたのは確かでしょう。しかし生活のためだけとは思えません。

 これは私の空想にすぎませんが、谷崎の美学として、伏せ字だらけの源氏物語を作るくらいなら、いっそのこと消してしまえと考えたのではないでしょうか。晶子訳(完訳版)は「どの××様の御代であったか」と始まりますが(伏せ字に入るのは「天皇」)、たしかに冒頭から××では興ざめです。

 私は、『春琴抄』で暴漢に襲われ火傷を負った春琴の顔を見まいとして、両眼を潰してしまう佐助の言葉を思い出しました。


 「私さえ目しいになりましたらお師匠様のご災難は無かったのも同然、せっかくの悪企みも水の泡になり定めし其奴は案に相違していることでござりましょうほんに私は不仕合わせどころかこの上もなく仕合わせでござります卑怯な奴の裏を掻き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござります」
(『春琴抄』)

 『春琴抄』はこの引用文の通り、句読点を大胆に省略した実験的な作品ですが、谷崎ほど活字面の視覚的効果を重視した作家はいませんでした。谷崎は当局や国粋主義者ら「卑怯な奴の裏を掻き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくよう」だと考えていたかもしれないと、手紙を見ながら思いました。


新訳版の制作について

 もちろん、この不完全な旧訳は、不本意なものだったでしょう。戦後は、完全な現代語訳を目指し二度目の訳(新訳)に挑み、『潤一郎新訳源氏物語』として1951年から1954年まで刊行されました。山田孝雄の校閲に加え、京都大学の研究者・玉上琢弥らに協力を依頼し、万全の体制を整えて臨んでいます。

 当代の日本画家14人の手による挿絵の数々は、極上の源氏絵巻としてこの新訳を彩りました。この中には、拙著の挿絵を手掛けていただいたA先生の師の中村貞以もいて、「夕霧」「御法」「幻」「匂宮」の4帖の挿絵を手がけています。

 この新訳版では、「である」調から「ですます」調に改めるなど、全面的な改稿が行われました。その制作の手順は次のようなものでした。


 ① 山田ら研究者がそれぞれ旧訳本に書き込みをし、それを参考に谷崎が旧訳本に書き込む。
 ② ①の谷崎の書き込みをもとにタイプ刷り(下訳)が作られ、谷崎・山田・玉上らと中央公論社に送られる。届いたタイプ刷りに山田・玉上らが書き込みをし、それを参考に谷崎が書き込む。
 ③ ②で谷崎が書き込んだタイプ刷りを決定稿とし初校が作られた。



 このやり取りが非常に興味深いものでした。

 「雀の子を犬君が逃がしつる」(犬君は若紫のお付きの童女)という若紫の言葉を、「雀の子を逃がしたの」と訳する玉上に対して、谷崎は「若紫にぞんざいな言葉を使わせたくない」という理由で「逃がしてしまいましたの」と訳しています。

 谷崎はフェミニストでしたが、女子の言葉遣いと礼儀作法には確固たる信念があり、譲れなかったのでしょう。

 しかし古文の試験なら、原文には敬語は使われておらず、玉上が正解です。若紫は幼くして母を亡くし、継母にいじめられ父の庇護も受けられず、祖母と淋しく暮らしています。若紫の登場場面は、「白き衣、山吹などの、なえたる着て走り来たる女子」(白い下衣も、山吹襲も、よれよれになったのを着て走ってきた女の子)と描写される通り、身なりも構わず、礼儀作法の教育も行き届いていません。源氏の養育を受けるまでは、敬語もきちんと使えなかったと考えられます。女子が走るなど貴族社会ではマナー違反でした。

 「『物凄イ』ハ若イ人達ノ流行語ナノデ気ニナリマス」という玉上の朱書きが目に止まりました。

 どの巻への朱書きか失念したのですが、「若紫」の「深き里は人離れて心凄く」を「山深い里は人離れていて物凄く」と訳した箇所への指摘ではなかったかと思われます。だとすれば、この朱書きも却下されてしまったようです。

 谷崎訳が、原文に忠実に、主語を入れずに敬語の使い分けで登場人物を示すことは良く知られています。

 もう一つの特徴が、この箇所のように、現代でも使われている言葉なら、原文のまま使用するケースが多いことです。「現代人に分からせることは大切であるが、そのためにみだりに平安朝の気分を壊すことはしなかった」(新々訳版序)というのが谷崎の基本方針です。

 ここが谷崎源氏が「上級者向け」といわれる所以でしょう。山深く人里離れることがなぜ「凄い」のか。「凄い」の原義が「ぞっとするほど恐ろしい」であること、また都を離れることに対する平安貴族の恐怖心などを知らなければ、この一節はピンと来ないでしょう。それには一定レベルの古典の知識が必要です。

 もちろんこのルールは、ケースバイケースです。「心凄し」は失脚した源氏が移り住んだ須磨の地の描写にも使われています。旧訳版の準備期間中に執筆された『文章読本』(1934年)では、谷崎はこの箇所と同じく「物凄い土地」と訳していましたが、新々訳では「荒れ果てた感じ」に改まっています。ここでは玉上らの助言が生かされたのでしょう。


新々訳について

 三度目の『潤一郎新々訳源氏物語』は、若い世代にも愛読されるよう現代仮名遣いに改め、1964年から翌年にかけ刊行されました。これが現在、中公文庫版として現在流通している版です。

 新仮名遣いには抵抗があったようです。しかし新字・新仮名による中央公論社版「日本の文学」シリーズの谷崎潤一郎選集が売れ行き好評であったために、この新々訳も新字・新仮名遣いに改めることを許諾したものです。

 この新々訳は、中公文庫版で池田彌三郎が解説するように、新訳版をたんに仮名遣いを修正しただけのものではありませんでした。


 [新訳]いつの御代のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候してをられました中に、格別重い身分ではなくて、誰方よりも時めいてをられる方がありました。

 [新々訳]何という帝の御代のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候していました中に、たいして重い身分ではなくて、誰よりも時めいている方がありました。


 文章の視覚的効果を重視した谷崎らしく、新仮名になったことに合わせて、いくつかの言葉を平易に改めています。「帝」という言葉が補足されたのも、検閲に配慮する必要はなくなったこと(新訳の時点では日本はまだ占領下でGHQ[連合国軍総司令部]の検閲体制が存続していました)、また戦後教育を受けた若い読者を意識したものでしょう。


最後に
 
 源氏物語を英訳し、世界に紹介したアーサー・ウェイリーから谷崎宛の書簡を見ることができたのも、今回の大きな収穫でした。中央公論社から新訳版を贈られたことに対する返礼で、谷崎に対する深い敬意と友愛の情を感じさせるもので、深い感銘を受けました。 

 しかし谷崎は新々訳の刊行完結を見届けることなく、1965年7月24日、数え年80歳の誕生パーティを祝った翌日に倒れ、同30日に息を引き取りました。

 芦屋市谷崎潤一郎記念館には京都下鴨の潺湲亭(せんかんてい。現在は譲り受けた日新電機株式会社の迎賓館「石村亭」)をモデルにした日本庭園が再現され、この庭に面して、谷崎の四畳半の書斎が復元されています。「潺湲」とはさらさらと水の流れるさま。せせらぎの流れる庭の松の緑が目に鮮やかでした。生涯「松に倚る」ことを誓った「倚松庵」の庵号の通り、松子夫人との運命的な出会いによって華々しくロマンの世界を開花させた、谷崎の理想の家だったのでしょう。

 芦屋川河畔は桜の名所で、これからの季節は『細雪』や『猫と庄造と二人のおんな』の舞台を巡るには良い季節です。谷崎と源氏物語に興味のある方は、訪ねてみることをおすすめします。最後に、この展覧会をご紹介いただいた岡田嘉夫先生、ご案内いただいた芦屋市谷崎潤一郎記念館の方々に、心よりお礼申し上げます。

2016年3月記



//////////

谷崎源氏については、当ブログ「文学少女 五十鈴れんの冒険」のフランス流日本文学完結編「最初で最後の一ページ 太宰治とヴィヨン再び」でも言及しています。


お父さん そこでまた谷崎の話に戻ってしまうんだけれど、純粋に小説の技術だけを見れば、谷崎の方が上で、玄人受けするんだろうと思うよ?  谷崎のやり方は、漱石や芥川とも、太宰とも違う。テキストの織物を完全にバラバラの糸に解きほぐして、完全に別の偽書を編み出してしまう。『潤一郎訳源氏物語』も、原典の忠実な訳であると同時に、谷崎のオリジナルな創作作品でもあるという、「不可能犯罪」ならぬ「不可能文学」だった。

梨花 えー! 谷崎をほめるなんて、れんちゃんパパの裏切り者ー!

お父さん まあまあ、落ち着いて。『春琴抄』という作品は、「鵙屋春琴伝」という一冊の書物を手にした「私」が、春琴と佐助の墓のお参りに行くところから始まるんだけれど、そんな書物は存在しない。谷崎の生み出した架空の書物なんだね。名作の『少将滋幹の母』の滋幹の日記と称するものも、谷崎の創作だった。
『源氏物語』の仕事も、首尾は上々、用意周到だった。国文学の最高権威の山田孝雄に校閲を頼み、第二版も玉上琢弥ら気鋭の国文学者らに補助を依頼し、脇を固めて隙が無い。堅牢なセキュリティ体制を整えた上で、誰にも邪魔されない自分の王国を築きあげている。
それに比べると、太宰の創作スタンスは隙だらけだし、リスキーだ。

梨花 いまの話聞いて、ますます谷崎のヤバさがわかった。そのセキュリティ体制って、絶海の孤島にある12体のネイティブアメリカン人形が並ぶ怪しい洋館みたいな感じなんでしょ? 天井裏から常に監視されてて、私は「梨花」だから、海に頭から沈められて水面から両足が逆さにニョキッと伸びて、「雁」の見立て殺人が成功しちゃうんだ。
太宰っちが隙だらけというのは、何となくわかる。

お父さん 梨花ちゃんの考える谷崎文学の世界は、クリスティと乱歩と横溝が混じって、なかなか独創的だね。
過去の名作の換骨奪胎を得意とした太宰の創作スタンスは、ボーイズラヴの世界でいう、「ナマモノ」すなわち実在の人物を取り扱うときに似たリスクを伴わずにいられないような気がするんだね。『女の決闘』も、森鴎外が生きていたら、さすがの太宰もやらなかっただろう。


と、この物語では、オリジナルがないと独創性を発揮できない太宰の強みであり弱みは、「カップ焼きそば現象」ならぬ「フランソワ・ヴィヨン現象」であるという太宰論が展開されますが、太宰をディスりまくりの父親に、れんちゃんが激怒して……と続いていきます。

乱歩と横溝とクリスティがミックスされた、れんちゃんの親友・梨花ちゃんの独特の谷崎像は、中二病時代の私のセルフパロディです。

谷崎源氏を絶賛しているようですが、源氏物語の現代語訳としてはおすすめしません。英訳で読んだほうがわかりやすいと思います。まだ半世紀あまり前ですが、谷崎の文章自体がすでに古典です。ただし、近代文学と古典に自信があって、谷崎のオリジナル作品として読むのなら、十分に楽しめると思います。

『文学少女 五十鈴れんの冒険』は、フランス文学や日本文学の研究者にもご好評いただいた、このブログの看板コンテンツです。お時間のあるときに、ぜひほかの作家・詩人・画家についてもご覧ください。太宰編に続く芭蕉編では、れんちゃんが「古池や蛙飛び込む水の音」の英訳を紹介し、また日本語に訳し直します。ハイキングや農作業日記に垣間見える、れんちゃんのカエルや小さないきものに対する愛情がおわかりいただけることでしょう。
2023年7月7日記






最新の画像もっと見る