
今日も摩耶山に登り、きのこ観察会に参加してきました。
きのこ観察会の話は、れんちゃんの日記をご参照ください。今日も楽しかった!
最近、だめライフ愛好会に注目してきましたが、それは私がきのこに興味を持ってきたことと、密接な関わりがあります。そして、このきのこ愛は、私の思想・理論にも影響を与えてきました。
だめライフ愛好会のアイコンになってきたのが、『ぼっち・ざ・ろっく』(ぼざろ)のキャラクターたちです(ただし虹夏ちゃん除く)。
ある人に教えていただいたのですが、『ぼざろ』の爆発的なヒットを、原作者のはまじあきさんは、「突然、胞子が広がるように」と表現していたそうです。まさにきのこの世界。
私自身はヒット前から『ぼざろ』を知っていました(『ぼざろ』が最後の参戦作品になった、いまはなき『きらファン』ユーザーです)。おもしろい作品だと思っていましたが、アニメ化も意外なら、まさかここまでブレイクするとは思いもよりませんでした。
『ぼざろ』をアイコンにするだめライフも、中大だめライフから、胞子のように広がっていったところがありますね。
しかし、たしかにキノコは胞子をばらまいて広がるのですが、今日お目にかかった先生いわく、菌糸が本体のキノコにとって、それは「気まぐれ」なのだそうです。
今日は、モリノカレバタケというキノコを見てきました。これは森の落ち葉を分解するキノコです。キノコというのは、スギナにとってのツクシのようなものなのですね。モリノカレバタケが生えた、腐葉土の表面をめぐると、内部は一面の白い菌糸でした。これがモリノカレバタケの本体なのです。
冬虫夏草のように、生物に感染する寄生型のきのこ類はいます。吉野の千本桜が枯れたのも、ナラタケの影響だったそうです。
樹木(あるいは寄生される生物)の立場から見たら、キノコは「菌」すなわち「病」です。
しかしキノコの視点からはそうではないのです。
キノコに寄生されるような木は、すでに弱った木(生物)です。キノコはこうした弱った木(生物)に寄生し、森から淘汰していくのです。
そして、キノコはこうした寄生菌ばかりではありません。
枯れ葉や落ち葉、動物の排泄物や死体を分解する森の掃除さんの腐朽菌もいれば、水分や無機養分を吸収して樹木に供給し、樹木から炭水化物をもらい共生する菌根類もいます。こちらのほうが、きのこの主流でしょう。
だめライフ愛好会の若い人で、ドゥルーズ=ガタリを再読している人がいました。勉強熱心な人ばかりで、ものすごくまじめな若者たちばかりですよね。全然だめじゃない。
振り返れば、私の学生時代には、まだ『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』など、ドゥルーズ=ガタリの主著は邦訳が刊行されていませんでした。かろうじて、『アンチ・オイディプス』の序文の『リゾーム』、ドゥルーズの盟友ガタリが、ゼロ年代冒頭、左派に流行した『〈帝国〉』の共著者アントニオ・ネグリとともに著した『自由の新たな空間 闘争機械』が出ているくらいでした。
『自由の新たな空間』は、私の「青春の書」でした。粗削りで単純すぎるところもありますが、80年代の左翼セクト、左翼運動の現実に絶望していた10代の私に、勇気と希望を与えてくれました。
ちなみに、「だめ」は両義的なものであるということ。
これはだめライフのみなさんにも、知っておいてほしい。
ハンデを理由に、ずーっと「だめ」と言われ続けてきて、「普通」になるべく努力してきた人たちがいることも忘れないでください。サリドマイドの私の幼なじみもそうでした。そうした人たちから見たら、「だめライフ」は、『プチブル健常者」の思い上がりでしょう。
しかし、偉い人たちから、「おまえ、ほんまだめなやっちゃなあ」と、私などはよくいわれますが、それは必ずしも否定のニュアンスばかりではありません。出世も何もか拒否して、反体制に生きる、私への逆説的な賛美だったりするわけですから。
日本を、世界を変えるのは、この両義性をもった「だめの力」だと、私は思います。
きょう、こんな記事を読みました。この「バカの力」は、「だめの力」といいかえることが可能ではないでしょうか。
東日本大震災に始まり、安倍政権が長く続いた2010年代。大阪公立大の酒井隆史教授(社会思想史)は、新著『賢人と奴隷とバカ』(亜紀書房)で、「知」を巡る当時の状況を考察した。酒井さんは反知性主義などを論じながら、「賢人」らしくふるまう知識人に疑問を投げかけ、自らを偽れない「バカ」に光を当てる。局面を変える大きな力を持つものとして「バカ」をポジティブに捉えた背景には、日本で「過激な中道」が極端な形で広がることへの危機感があった。
本書は12~22年に執筆した時事評論を集め、書き下ろしを加えたもの。タイトルは中国の文学者、魯迅(1881~1936年)が描いた寓話(ぐうわ)「賢人と馬鹿と奴隷」(25年)に由来する。いつも不平を口にする「奴隷」▽そのことに同情しつつも偽善的にやり過ごす「賢人」▽そして不正に怒り、実直に解決しようとする「馬鹿」--にまつわる物語だ。そこでは、現状を変えようとする「馬鹿」がないがしろにされ、権力におもねる「賢人」とそれに従う「奴隷」によって世界が維持される。
酒井さんは、3者をめぐるアレゴリー(寓意(ぐうい))が10年代の日本を象徴的に表すと感じたという。「3・11以降、知をめぐる日本の状況は保守化を強め、内向きになったというのが僕の印象です」。魯迅にならい、本書でも「バカ」は肯定的に捉えられる。
そもそも「バカ」には両義性があったはずだ。…