きのうの続きになるが、映画『ビリケン』の「倒されたらまた建て直す」には前例がある。
初代通天閣は、戦時中、軍の金属回収令で解体された。しかしお国のお役に立つことなく、スクラップとして明石の浜かどこかに転がっていたと聞く。もう溶鉱炉を動かす燃料も枯渇していたのだろう。
現二代目は、新世界の人たちが寄付を募って1956年に再建。最初の計画では、名古屋テレビ塔より高くしようとした。しかし商店が密集してそれだけの工事スペースがとれない。展望台の高さだけでも名古屋より高くすることで妥協したという。
大阪城天守閣は三代目で、昨年80周年を迎えた。歴代の天守で一番長生き(二代徳川天守は落雷で焼失)。亡くなった小松左京は、自分と同年の天守閣に愛着を感じると書いていた。小松も血気盛んな30代には、鉄筋コンクリート造で文化価値ゼロだと悪罵の限りを尽くしていたのだが。
四天王寺さんに至っては、いま何代目かわからない。平安時代にもたびたび焼失している。近世以降に限っても、石山本願寺攻め、大坂冬の陣、江戸時代の落雷による火災、室戸台風、大阪大空襲と、5回も焼失または大被害を受けた。現在の伽藍は1963年完成で、大阪城と同じく鉄筋コンクリート造である。
天王寺公園で、今はなきカラオケ青空屋台市を初めて見たとき、これは『弱法師』だと思った。あのおかしさ、悲しさ。喧嘩の中にも時間の止まったかのような沈黙。「孤独のグルメ」の作者も、同じ頃大阪を訪ねて、フェリーニの「道」にたとえた。
しかし天王寺の猥雑は、今に始まったことではない。
「仏法最初の天王寺の、石の鳥居がここなれや、立ち寄りて拝まん」(『弱法師』)
今も地名に残る「悲田院」は、四天王寺の社会福祉施設だった。『弱法師』で描かれるように、盲人や病者や身よりのない老人など多くの社会的弱者が集まってきた。芸能は喜捨に対するお返しでもあった。
「契りあればなにわの里に宿り来て 波の入り日を拝みつるかな」(藤原家隆)
春分と秋分には、西門の石鳥居の真中に夕日が沈む。中世の難波は、この四天王寺のあたりまで海が迫っていた。西門にあたる石鳥居が、西方浄土に通じる往生の聖地とされた。
橋下市長、ようこそわれらが西成特区に。大歓迎するよ。花の大門にのろしがあがる。ネオリベどもを西方浄土に送り届けるたたかいも、ここ、なにわのディープサウスから始まるのだ。
「明るい西成、楽しい飛田、君と僕との新天地」(「花の大門灯りがつけば」)
「弱法師」は色気はない話のようですが、それ系列の話である摂州合邦辻は色気のある話のようで、思う所があって某所に投稿しましたのでご覧ください。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1321364019/569-571
藤原竜也の美しさには、ゾクッときたなあ。
まず、ヲタクの皆さんに申し上げれば、文楽なくして今のアニメもフィギュアもないです。
アホの橋下がなくしたいら、なくすでいいとしましょう。民意ですからねー。
しかし海外向けのパンフレットつくるときには、いかにも「ニッポン」な絵が必要で、文楽も大切にされてきた経緯があるわけですよ。
その後に何が残る? そこまで考えた上で、発言している? チンカスもマンカスどもも、黙ってろ
ということでしょうか。
http://kilauea.bbspink.com/test/read.cgi/hgame2/1327327617/24-32
24、26が当戦線のカキコだけど、(別の話題を書いた1カキコ除いて)みんな当戦線のネタカキコ投入に真っ芯で捉えたピッチャー返しで来るもので、32の中途半端な書き込みをして当戦線は逃亡せざるを得ませんでした。
TAMO2大阪仰山党投手が京都の書店で「韓非子などを取り上げて熱く後輩に説明するのを見て」、「右翼スゲーと思った。」のと同様「18禁GALゲー愛好家スゲーと思った」場面でした。
それはともかく、このブランドのライター希氏は最近4作中3作が民俗系の話なんで古典芸能の翻案はする能力自体はお持ちと思います。 直接それをやることが本人の利益かは別にして。