きのうの続き。
きのうは藤田まことの『十三の夜』の話をしました。十三を通過する宝塚線・神戸線・京都線のうち、宝塚線・神戸線の駅名は出てくるのに、京都線の駅名は出てこないのは、「南方のねぇちゃん」と二股をかけていたからだという愚説を開陳しました。
阪急線の「南方駅」は「みなみかた」ですが、地下鉄御堂筋線の「西中島南方駅」は「みなみがた」と濁ります。「西中島南方駅」なる駅名は、地元の「南方」住民と「西中島」住民の対立の結果、妥協の産物のようです。この「西中島南方」駅の発生以降、大阪地下鉄の駅には、「四天王寺夕陽ヶ丘」「喜連瓜破」(きれうりわり)などの地元の地名を複合した駅が生まれていくようになります。
しかし、南方は今でこそ、阪急京都線と地下鉄御堂筋線の乗換駅であり、新幹線停車駅の新大阪駅から徒歩圏内という好アクセスもあって、飲食街や風俗街ばかりでなく、大企業からベンチャー企業の本社、ホテル、専門学校が集まるカオスの街となっています。
しかし、『十三の夜』が発表された1971年ごろの南方は、どうだったんでしょうか?
1967「年当時の東淀川区の地図データを見つけました。梅田までふた駅のアクセスのよさもあって、宅地開発も進んでいたようです。
でも、東淀川区? あれ? 南方は淀川区ちゃうのん?
と、思ったあなたは、大阪の方ですね。そして、お若い(私よりは)。
もともと、大阪には淀川をはさんで、東にあるのが東淀川区、西にあるのが西淀川区だったのです。東京の佃は、西淀川区にある佃村の漁民が、家康に従い江戸に移住して築いたまちです。
1964年の新幹線開通と御堂筋線延伸の影響で、東淀川区の人口が膨張し、1975年、東淀川区は新大阪駅あたりを境に、淀川区と東淀川区に分区したのでした。
阪急南方駅の開設は1921年ですが、南方の開発が進んだのは新幹線開業と御堂筋線延伸以降でしょう。
1964年の新大阪駅開業前後の古写真を見たことがあります。牛さんたちがのんびり草を食んでいました。南方も、いまよりのんびりした場所だったんじゃないかな。
淀川をはさんで対岸が中津です。60年以上前だと思いますが、弊社のご隠居の現役時代、雨が降ると、中津周辺は水浸しになったそうです。だから中津のお得意を訪ねるときは、中津駅に自転車を置いて、ズボンの裾を膝までまくって、脱いだ靴下を丸め込んだ靴をカバンと一緒に頭の上に乗せて、水のなか、ジャブジャブ歩いたそうです。
その後、大阪の治水事業も進み、雨水があふれることもめったになくなりましたが(今もたまに梅田の地下街は水没します)、中津の対岸の南方も、似たような状況だったでしょう。
そういえば、阪急中津駅の近くに、5月と11月にしか開館しない南蛮文化館という、南蛮文化、潜伏キリシタン関連の個人ミュージアムがあります。南蛮文化館の所蔵する、潜伏キリシタンが守り抜いたマグダラのマリア画像(悲しみのマリア像)には、宗教心、信仰心ゼロの私も、深い感銘に捉えられたものです。
この11月は行きそこねましたが、今度の5月はまた出かけようかな。南蛮文化館はこのほかにも重要文化財の南蛮屏風、イエズス会紋章入り聖餅箱、十字紋赤織部茶碗 、高山右近の書状など貴重なコレクションを所蔵しています。阪急中津駅下車すぐ。潜伏キリシタンの信仰にご興味のおありの方は、足を延ばしてみてください。
潜伏キリシタンには興味があります。この文化会館も面白そうです。見学してみたい…。
義父が生前、実家の先祖の墓を墓じまいしたとき、江戸時代の墓の一つ(女性の)から、遺骨(土葬の)と共に十字架とロザリオが出土したそうです。親戚の誰もクリスチャンではなく、そういう言い伝えもないのに。
本家の伯父さんは「こんなもん見たくない!持って行ってくれ!」と言ったそうですが...。密かに信仰を守っていた潜伏キリシタンが、宮城県の片田舎にもいたのですね。