新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

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ポーの一族のめざめ 萩尾望都vs吉本隆明

2019年08月22日 | コミック/アニメ/ゲーム
 「神聖なる二次元」と、「リアル」を混同してはいけない。BLは、リアルのゲイの世界とは関係なく、あくまでもファンタジーである。

 私の知るBL同人さんは、極度の男性恐怖症、恋愛恐怖症だった。直接言葉を交わしたことはなく、いつも人を介してだった。男性というだけで、恐怖と忌避の対象なのだ。

 しかし彼女の本は「エロい」と評判だった(現物は見せてもらったことがない)。だから、恋愛やセックスそのものに興味がないというわけでもない。それが実際に自分の身の上に起こることが、想像するだけで吐き気を催すほど絶対いやというだけだ。だから、自分とは距離を置いて、ファンタジーとして楽しめるのが、ボーイズラブの世界ということらしかった。伝聞だし、記憶が正確かどうかもわからないが。

 萩尾望都が、吉本隆明との対談で、「実際的な同性愛というんじゃなくて、ひとりで遊んでる」一種の自己愛で、自分の分身のようなものだと語るのを読んで、彼女のことを想い出した。

 「だから、これは女の子同士でも男の子同士でも、わたしはかまわないわけ。たんに、女の子同士にすると、自分が女の子でしょう。いやらしさがすごくみえてくるわけです。その分、男性だと知らない部分が多いので理想的に描けるもんでね。それでそっちになっちゃうわけです」(「自己表現としての少女マンガ」)

 『11月のギムナジウム』(1971年)では、男子校のプロットと女子校のプロットがあったという。しかし女子校のほうは陰湿に流されていやらしくなってしまったので、男子校になったというのが舞台裏のようだ。キスシーンも、女同士だと、ねば納豆のようにねちーっとしてしまうと語っている。

 この対談は、最初のうちは良い雰囲気なのだ。萩尾がプロのまんが家になりたいと思ったきっかけは、手塚治虫の『新撰組』を読んだことだと語るくだりなどは特にそうだ。本作は手塚作品では標準作で、別に読んで死ぬほど感激するような話ではないと不思議がられてきたのだという。

 しかし、吉本は『新撰組』を知らず、興味もないらしい。この話題はさらりと流されてしまう。

 『新撰組』がそこまで感動するような作品だとは、私にも思えない。しかし、「すごいショックを受けて、一週間ばかしボーッとしてた」という内的体験が、どんなものだったのか、理解できずとも想像することはできる。それは、萩尾望都の娘たち孫娘たちの世代が、『ジャンプ』の少年まんがに出会ったときに感じる、「尊い」と呼ぶほかにない敬虔な感情の「芽生え」であり「目覚め」ではなかったのか。

 この対談の収録本には、『新撰組』から、花火をバックにして、主人公の丘十郎と、実は長州の間者だった親友の大作が、剣を構えて睨み合うクライマックスの場面が紹介されている。私たち男目線では、たんなるチャンバラシーンだ。しかし山猫先生なら、「これは愛し合っているというんだよ」と解説してくれることだろう。実際、この場面は、「きみかぼくのどっちかが死ねばいいんだ」という、究極の「ボーイズラブ」シーンなのである。

 しかし、「尊い」というオタク的用法が生まれたのは、2014年以降のことである。この対談の初出は『ユリイカ』1981年7月臨時増刊号だが、当時はまだ「萌え」ということばすらなかった。萩尾本人にも説明のしようがないのだから、吉本が理解できなかったとしても仕方ない。

 そうは言っても、この『ユリイカ』増刊号を、古本屋で見つけて読んだときは、「おじいちゃん、しっかりして」と情けない気持ちになったものだ。吉本は、私なんかよりも、萩尾作品や少女まんがを、もっとたくさん良く読んでいるはずだ。それなのに、『ポーの一族』よりも『ケーキ ケーキケーキ』の方が本筋ではないのかと、トンチンカンな質問をしてしまうのだ。

 『ケーキ・ケーキ・ケーキ』は原作付きで、決して萩尾ワールドのメインストリームではない。萩尾が描きたかったのは、こうした王道少女まんがではなかったはずだ。あの作品が好きだというのは、「男の人やお年寄りだけ」と萩尾にバッサリ切り捨てられ、吉本も言葉の接ぎ穂を失う。

 しかし、インタビューなどでは、相手の本音や素顔を引き出すために、怒らすことが有効な場合がある。イライラした感じの萩尾から、「原作がなければ、さっさと母親を殺していた」と、「母殺し」のモチーフを引き出したことは、吉本のお手柄といえる。あさっての方角から飛んできた吉本のことばは、打ち返そうにも、避けようのない危険球のようなもので、萩尾の「負い目」や「泣き所」にクリティカルヒットしてしまったのだろう。対談の同時期に連載されていた『メッシュ』は、親子の相克を描くけれど、主人公は少年だった。萩尾もまだ若く、「女」あるいは「娘」として、「母殺し」のテーマに真正面から向き合うのは、1992年の『イグアナの娘』まで時間が必要だった。

 この部分も、『新撰組』との出会いと同様、萩尾ワールドの始原に関わる重要テーマなのに、不完全燃焼で終わってしまう。『欽ドン! 』の話なんて、死ぬほどどうでもいい。

 しかし、萩尾は天才まんが家らしく、このグダグダのうちに進んだ対談を、最後だけは見事にオチをつける。「世界最後の人間になったら、そのときこそ人に見せられないようなマンガをかく」という萩尾の発言は、「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ」と若き日に歌った老詩人への、華麗なるアンサーといえよう。

 なお、私は、この対談を『吉本隆明全マンガ論』から引用したけれど、『コトバのあなた マンガのわたし 』(河出書房新社)のほうが入手しやすいと思う。本書には、このほか、野田秀樹、光瀬龍、種村季弘、小笠原豊樹+川又千秋 「レイ・ブラッドベリの魅力」、伊藤理佐との対談が収録されている。

 ◆河出書房新社のサイトへ→ 『コトバのあなた マンガのわたし 萩尾望都・対談集 1980年代編』


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