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大阪の橋 

2019年08月23日 | 大阪

 故・中島らもは、泥酔すると、「橋、渡らせへんぞ!」とわけのわからないことを良く叫んだそうだ。

 それは困る。

 すごく困る。

 「橋」を渡らないことには、大阪市内は移動できない。淀屋橋、大江橋、渡辺橋、玉江橋、戎橋、農人橋を渡れなかったら、弊社の営業活動はストップする。埋め立てられたり、暗渠になったりして、地名に残るだけだが、桜橋、浄正橋、心斎橋、長堀橋も通過しないわけにはいけない。京橋、日本橋、鶴橋にもクライアントがいる。橋を渡ることは、大阪に生きる弊社の死活問題である。

 「浪華の八百八橋」と呼ばれるように、「橋」は大阪のシンボルである。しかし、江戸には約350の橋があったのに対し、大坂には約200ほどしか橋がなかった。「橋」が大坂のシンボルになったのも、都市大坂の独自性がそこにあったからだ。

 江戸の橋は、約350橋の半分が「公儀橋」と呼ばれる、幕府が公費で架けた橋だった。

 一方、大坂にも公儀橋はあった。しかし、「天神橋」「高麗橋」など、わずかに12橋である。残りの橋はすべて、町人が私財をなげうって、生活や商売のために架けた「町橋」だった。幕府からの公的援助はなく、町人たちは自腹で橋を架け、自前で維持管理した。「淀屋橋」は、この「町橋」の代表格である。

 中世にも、「橋」はこの地のシンボルでもあった。古代の難波を象徴する歌枕である「長柄橋」(ながらばし)は、多くの和歌に詠み込まれている。

 しかし歌枕になったのは、橋そのものでなく、「橋の跡」である。

 現代の長柄橋は、阪急線の駅名でいえば、北区の天神橋筋六丁目と、東淀川区の柴島(くにじま)を結んでいる。大阪には「島」の付く地名も数多い。

 古代の長柄橋がどこにあったのかは、わからない。淀川の流路も現在とは異なる。この近辺には、「西中島」という地名もあるけれど、この当時の橋は、中洲と中洲を結ぶ、沈下橋のようなものだったろう。古代の長柄橋が架けられたのは、嵯峨天皇の時代で、弘仁3年(812年)のことだったという。推古天皇12年架橋という説もあるが(これは信じがたい)、ともあれ「長柄橋」という名の橋が架けられたのは、20世紀になるまでは、この嵯峨天皇のときが最後である。約40年後の仁寿三年(853年)頃、水害によって流されてしまい、ついに再建されることはなかったのだ。この頃には、王朝も弱体化しており、杭だけを水面に残すことになった。

 中世には、この存在しない橋が「天下第一の名橋」と称され、歌や文学作品に多数取り上げられることとなった。この「橋の跡」に、古代王朝の「夢の跡」を偲ぶという、一種の廃墟ブームである。藤原氏のひとり勝ちの後、院政期があり、さらに武士政権が成立して、貴族階級の多くは没落を始めていた。和歌の多くは、長柄橋を建立した頃の、天皇親政の律令時代に対する憧憬と願望をこめたものとなっている。紫式部の同時代人で、同僚でもあった赤染衛門は、「わればかり長柄の橋は朽ちにけり なにはの事もふるが悲しき」という和歌を残した。秀吉の辞世の「浪速のことも夢のまた夢」も、これらの歌を踏まえた本歌取りだ。

 784年の難波宮(なにわのみや)の廃止後、難波の地は荒れるに任された。しかし、近世大坂の成立まで、約800年以上続いた「歴史の空白時代」に、現代の大阪につながる、さまざまな要素を見出すことができる。

 大阪は「あきんどのまち」といわれるけれど、それは近世以降の話だ。商売だけのまちではない。水軍海賊の渡辺党が支配する、暴力のまちでもあった。『御伽草子』の一寸法師が難波村の出身であるように、この頃からお笑いのまちでもある。南朝が住吉に行宮(あんぐう)を作ったが、内戦を続ける亡命政府の首都でもあった。蓮如が建立した石山本願寺は、全国の一向一揆の司令基地になり、宗教原理主義者の聖地となる。貴族たちにとっては、前述したように、古代王朝の栄華を忍ぶ廃墟リゾートの観光地でもあり、熊野詣での出発地でもあった。

 現代の日本の都市の多くは、近世の城下町を直接の起源としている。この他にも、京都のように古代の都をルーツにしたり、門前町、港町、宿場町、市場町と、近代以降の軍都と、都市のルーツはいろいろな形がある。アクセスがよく、住みやすく商売がしやすい場所は、昔からそんなに変わっていないから、たいていの都市はそのいくつかの要素を組み合わせている。

 しかし全国の都市のうち、古代の都であり、さらに近世の城下町でもあったという歴史を持つのは、大阪だけである。

 大阪だけが、「都市」を成立させるありとあらゆる要素を、ごった煮のようにすべて詰め込んでいる。こういう多層的な構造を持った都市は、全国でも大阪しかない。さまざまな人や文化やモノが流れ着き、住み着き、何でも受け入れてきた。

 いまの大阪が進める、ネオリベ民営化路線は、民間の私財に支えられた、江戸時代の大坂への逆行だといえる。

 しかし、そこには「橋」を街の誇りにした気概もプライドのかけらもない。大阪で創業した大企業は、次々と東京に出ていった。維新とその仲間たちには、400年以上かけて先人が積み上げてきた社会資本を私物化し、むさぼり、しゃぶりつくしているだけだ。その後には、浪華のことは夢のまた夢で、焼け野原のような葦野原しか残るまい。

 まあ、それもそれで、大阪らしい。日本の古名である葦原中国(あしはらのなかつくに)は、古代大阪の原風景でもあったろう。JRの車窓から、淀川の干潟再生実験場を眺めながら、「死ねば死にきり 自然は水際たっている」という光太郎のことばを想い出していた。

長柄の人柱碑(関西・大阪21世紀協会―なにわ大坂をつくった100人―より)


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