新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

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大阪市「育て方が悪いから発達障害になる」条例案に反対する

2012年05月05日 | 大阪
 きょうはこどもの日。
 しかしほんとうにひどいものを読んだ。
 以下、lessorさんの日記より、一部抜粋して転載させていただく。いわゆる発達障害の子どもたちも親たちも支援者たちも、差別に直面しながら理解者を増やしてきたのに、この橋下維新の「伝統的子育て」条例はぶちこわしにするものだ。どんな「科学的根拠」があるというのだ。こんなものを承認するわけにはいかない。

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■大阪市「育て方が悪いから発達障害になる」条例案について
http://d.hatena.ne.jp/lessor/

家庭教育支援条例(案)
http://osakanet.web.fc2.com/kateikyoiku.html

 <報道ではもっぱら「保護者に保育士体験」ばかり取り上げられているようだが、発達障害関係の部分のほうが遥かに深刻な内容をはらんでいる。(中略)

 条例における「発達障害」観は、障害を固定的なものと捉えないものの、もっとタチの悪い「原因論」を持ち込み「育て方に問題があるから発達障害になり」「育て方を改善すれば発達障害は生じなくなる」という点ばかりを強調している(と書くと「学際的研究をするとも言っているのだから」という反論もあるのだろう。しかし、この条例中で唯一「発達障害」との因果性をもつものとして具体的に示されているのは「育て方」なのだから、そんな大らかな読み取り方などできるはずがない)。
 (中略)
 障害を個人化する「医学モデル」は近年「社会モデル」の台頭によって批判を受けやすくなっているが、この「育て方モデル」はいっそう最悪である。日本で「母原病」なんて言葉が広まったのはおよそ30年前。自閉症児の母親は冷淡な「冷蔵庫マザー」であると言われたのは1940年代から70年代ぐらいにかけてのことだったか。「科学的知見」とやらは、ずいぶん時計の針を戻したものである。
 (中略)
 社会的な実践の行き着く先は「多くの人々に発達障害の特性を理解してもらうこと」となるのが必然である。社会の中で生きることを急ぐ必要はないが、社会の中で生きることを堂々と放棄する(させる)わけにもいかない葛藤の中で、親も子も支援者もゆっくりと理解者を増やす努力をしてきた。「発達障害」という概念がこれほどまでに広がってきたのは、さまざまな事件がらみの否定的な注目を契機としつつも関係者が「正しい理解」を普及させようとしてきた結果でもあっただろう。

 そんな努力の成果を一気にぶち壊すような条例が、このまま当事者も支援者も研究者もみんな黙り込んだままで可決するようなことになるならば、既に大阪市の関係者には抗えばどんな目に合わされるかという「恐怖」と「あきらめ」が蔓延していると思わざるをえない。

 そして、条例の中でかなりの分量を「発達障害」が占めているにもかかわらず、それを何も報道しようとしない大手マスコミは本当に役立たずである。

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