ソクラテス以前の古代ギリシアの自然哲学について調べるのが、ささやかな楽しみだった。その頃、一斉弾圧で地区党も壊滅状態で、なにもやることがなかったのである。ほんとうはマルクスの学位論文に関するノートを取っていたはずなのだが、デモクリトスもエピクロスも実におもしろい。
『岩波哲学講座 自然の哲学』の巻末エッセイである林達夫「精神史」は鮮烈だった。ミケランジェロやレオナルドを通じた「洞窟」についての考察は、地下生活も悪くないぞと思ったものだ。「宇宙生成卵」というキーワードには、魔術的な響きがあった。死と再生の永遠回帰のダイナミズムを、永続革命論に結びつけ革命を再生すること。
<トーロー城塞の土牢の中で今書いていることを、私はかつて書いたことがある。また未来永劫に書くであろう。同じようなテーブルに向かい、同じようなペンを持ち、同じような服を着、同じような情況の中で。>(ブランキ)
この「精神史」に触発されたのが、西郷信綱『古代人と夢』である。この本との出会いが、源氏物語と向き合った最初……で最後になるはずだった……である。源氏の研究者でもあった大野晋らの『岩波古語辞典』は大いに役だった。日本語=タミル語起源説はさておき、日本語の成り立ちについて考えるモチベーションになった。