とある拍手コメントでご指摘いただいた太宰のエッセイは、これだろうか(短いエッセイだからすぐに読めますが、直接にはご参考にならないでしょう)。
「返事」太宰治
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/42372_15885.html
このエッセイで太宰は、自分たちの戦争協力責任はほおかむりして、軍閥官僚を叩き、日本共産党に迎合する知識人やジャーナリズムを批判しながら、最後は保守党に入るつもりだと結んでいる。
「私はいまは保守党に加盟しようと思っています。こんな事を思いつくのは私の宿命です。私はいささかでも便乗みたいな事は、てれくさくて、とても、ダメなのです。
宿命と言い、縁と言い、こんな言葉を使うと、またあのヒステリックな科学派、または「必然組」が、とがめ立てするでしょうが、もうこんどは私もおびえない事にしています。私は私の流儀でやって行きます」
ところが、『1968年』のスガによると、太宰治は戦後すぐに日本共産党に再入党したという。
http://d.hatena.ne.jp/nikubeta/20070318/p1
第4インター派(JRCL)の「かけはし」に、スガが元にした本の書評が掲載されていた。
http://www.jrcl.net/framek553.html
太宰治の再入党が事実なら「少し」驚きである。しかしそれも中野重治(党史からは抹消)に較べたら、という程度にすぎない。
戦後すぐの共産党は、今からは考えられないほど門戸が広かった。戦後共産党を再建した徳田球一は、粗暴な家父長制スターリン主義者だったが、大衆的な人気はあった。党にも多彩な人間が集まっていた。共産党系と目された「新日本文学」も(後に断絶・分裂するが)、発足当初は、志賀直哉や野上弥生子らも賛助会員として名前を連ねていたくらいだ。志賀は後に天皇制の評価をめぐって志賀は脱退するが、左翼的な事大主義では「共産党の下に馳せ参じた」ことになってしまうのだろう。
ただし、太宰自身は、戦後、日本共産党と接近したことはあっても、再入党はおろか、シンパであったこともなかっただろうと思う。
このエッセイが書かれたのはいつごろか。青空文庫の底本の『もの思う葦』(新潮文庫)を見たらわかるのかもしれないが、仕舞い込んでいて、今すぐは出てこない。
このエッセイは『惜別』の読者からの手紙への「返事」という形をとっている。太宰が情報局と文学報国会から魯迅の伝記の依頼を受けたのは1943年年末だが、「惜別」の刊行は敗戦直後の1945年の9月だった。
文中に出てくる、講談社のキングの復刊時期はわからない(戦時中は敵性語という理由で「富士」に改題)。古書通販ネット「日本の古本屋」で、昭和21年新年号(1946年1月)の在庫は確認できた。その広告を見たということだから、1945年9月から12月(遅くとも翌1月)までに執筆されたものだろう。
戦後直後の太宰が、戦後民主革命に希望を持っていたことは、このエッセイからもよくわかる。しかしその後の失望と幻滅。1945年10月から連載開始された「パンドラの匣」には、すでにこんな一節がある。
「日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。真の自由思想家なら、 いまこそ何を置いても叫ばなければならぬ事がある。」
「な、なんですか? 何を叫んだらいいのです。」かっぽれは、あわてふためいて質問した。
「わかっているじゃないか。」と言って、越後獅子はきちんと正坐し、「天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ」
1946年4月、長兄の津島文治が進歩党から戦後初の衆院選に立候補した時は、太宰も背広にリュックサック姿で選挙運動に協力した。なお太宰が家族を連れて三鷹に帰るのは、敗戦翌年、1946年11月のことである。
もっとも、詳しく調べたわけではない。再入党は事実かもしれない。しかし万が一そうだとしても、太宰文学への評価を変更する必要は、どこにもないだろう。文学は、善悪の彼岸にある人間の根源的自由を擁護するものだ。文学や芸術は、決して政治イデオロギーや権力や資本の従僕ではない。これこそが太宰が命がけで訴えたかったことだろう。最後に、太宰の戯曲「春の枯葉」に引用された流行歌のフレーズより。
「あなたじゃ
ないのよ
あなたじゃ
ない
あなたを
待って
いたのじゃない」
(「春の枯葉」)