新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

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なぜ晶子訳が好きなのか

2010年09月04日 | 源氏物語・浮世絵・古典・伝統芸能
ほかの人の訳がきらいだとか、悪いといっているわけじゃないですよ。初めて読んだのが晶子訳だから、刷り込みかもしれませんね。私の年代には、ドラえもんは大山のぶ代しかありえないと感じてしまう。それだけの可能性もあります。

 それでも、晶子訳だけは、紫式部本人の肉声が聞こえてくるような気がしてきました。谷崎訳は、うまいなあ、さすがだなあ、名訳だなあと感心することはあっても、谷崎はあくまでも谷崎なのです。名訳だなと思うのも原文と読み比べているからです。

 晶子訳には度肝を抜かれることがあります。たんなる誤訳か勇み足のこともありました。しかしおおむね原文のキモとなる部分を切り出しているんですね。たとえば、源氏が明石姫君の後見役を、紫の上に打診するところで、「幼稚な女ですから、子どもには好かれるでしょう」と答えている場面などがそうです。原文の紫の上のセリフは、「帚木」冒頭の屈折しまくったソフィストばりのレトリックで、紫の上の愛も憎しみもイロニックに表現している。この現代語への移し替えが実に見事なのです。

 源氏学者を別にすれば、原文を隅々まで暗誦した上で現代語訳に取り組んだのは、晶子一人だけではないだろうかと思ったりします。晶子には、「歌を作るのに、古歌を暗誦して置くと、大変都合がいいから二人でこれを暗誦しませう」と古今和歌集をすぐに暗誦したエピソードがあります。晶子訳を推奨する吉本隆明もいうように、寺子屋風の暗誦教育を受けた彼女は、たとえ意味はわからずとも、もう体がそのことばのリズムをおぼえている。たとえ意味は忘れられても、語り継がれた言葉は残っていきますね。そうやって源氏物語も、千年の長きを生きてきた。

 完訳版より新訳版がいいですね。完訳・新訳ともに和歌の訳がないのはつらいし、新訳はダイジェスト版。しかし正宗白鳥のようなインテリは、ウェイリー訳で源氏の良さを知ったという話がありますが、庶民はこの晶子新訳版で源氏に出会った。いま読んでもそう古びていません。

 吉本隆明・大西巨人のように、『資本論』は長谷部訳、『源氏物語』は晶子訳でないと読む気にならないという人達もいます(『素人の時代』角川書店)。

 吉本さんは別のところで、長谷部訳『資本論』のドイツ観念論直訳体が、〈マルクス主義〉の解体の契機をはらんでいたと書いています。晶子訳にも、三田村雅子先生のいう、天皇制を首の皮一枚つないできた源氏幻想・王朝幻想を解体する契機があるのではないか。雅でもエレガントでもなく、あくまで明晰でシャープなところが。マイナーですが、こんな読み方をする人間もいるというお話でした。


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