土曜は朝の開場からレイトショーまで、一日中映画館にいた。『ジョーカー』と『エンテベ空港の7日間』、そして、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』を4回。日曜は朝早いから、夕方の回だけにしようと思ったのだが、たまには一日中、好きなものだけ観て過ごす贅沢をしてみたくなった。この映画は、何回観ても見飽きない。何度観ても発見がある。
答え合わせ。最初、ベネディクトいわく、テイラーはヴァイオレットの名前を「いろいろ」間違えているのだが、未だに「エバーガルデン」しかわからない。名前の発音はたしかに少し怪しいが、「バイオレット」くらいには聞こえる。「パイオレッド」? 名前を呼ぶのは3回あるが、結局わからずじまいのままである。
ワルツのシーンで、エイミーがくるくると回りながら見上げる空飛ぶカモメが、なぜ急に絵画調になるのかが不思議だったけれど、回想シーンではなく、天井画の絵そのものだったんだね。宴の後の舞踏会翌日、アシュリーに話しかけられるシーンで気がついた。ヴァイオレットは去ったが、もう彼女はひとりぼっちではない。しかしあのワルツのシーンの絵のカモメは、夢が現実に帰り、また鳥かごのような日常に戻らねばならないことにエイミーに気づかせる演出になっている。
エミリーがヴァイオレットの髪で遊ぶシーンは何度観ても尊い。料理ができたり、お裁縫ができたり、戦争前、エイミーは貧しくても、母親に愛情をもって育てられていたのだと信じたい。だから、「少し似ています。私も親を知りません」というヴァイオレットの言葉に、胸を抉られた。今日また観直して、自分と同じく拾われたテイラーに向けられた言葉かとも思った。しかし、だれかとお風呂に入ったことのないエイミーも、親を知らなかった可能性もある。
お風呂といえば、はかなく美しく夢のように一瞬で消え去るシャボン玉も、エイミーとテイラーの絆のシンボルになっている。ヴァイオレットは、エイミーと一緒にお風呂に入り、テイラーと一緒にシャワーを浴びる。二つのシーンは重なりながらも、その意味や関係性は異なる。
エイミーと一緒にお風呂に入るとき、ヴァイオレットはタオルで身体を隠し、足だけをバスタブに入れている。その姿は古代ギリシアの彫刻のように美しい。あの義手がなければ、ミロのヴィーナスのように見えたかもしれない。この神々しいまでに官能的なヴァイオレットの肢体は、エイミーの羨望と憧れを通したものだろう。そこには、無骨で無機質な義手さえも愛しむ、優しい眼差しがある。テイラーとのシャワーシーンでは、幼い目を通した、優しくてきれいなお姉さんがいるにすぎない。
「僕の侍女はギィギィ、と鳴くのだ。
正確に言えば、音の出処(でどころ)は腕で、彼女は義手をしている。(中略)
静寂という言葉が人になったような少女なのに、機械の部品だけは静かになれず、どうしても鳴いてしまうのだ。
僕はそこが、彼女の機械的でありながらも人間的な部分だと思っていて、とても愛おしい」(『イザベラ・ヨークと花の雨』)
エイミー(イザベラ)が語るように、見た目も挙動も完璧無欠な彼女が、本当は不器用なひとりの生身の人間であることを気づかせてくれるのが、この義手である。清岡卓行は、両腕を失ったミロのヴィーナスの欠落に、「全体性への想像力の飛躍」があると評したが、それは男性詩人が自らの「性癖」を語っているにすぎない。いい気なものだと思う。この義手がなければ、彼女は働くことも生きていくこともできない。
タオルで裸身を隠すのは、アニメの入浴シーンの「お約束」だが、最初、エイミーのお風呂のお誘いに、「結構です」と断り、結局、脚しか湯舟に入れていないのも、「女の子の日だったのかな?」と、つまらぬことを考えたりした。彼女も生身の人間なのだ。
ヴァイオレットの義手は痛々しい。しかし、この痛みを感じる心の中にこそ、「愛してる」がある。
