新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃん姉妹とお父さんの日々。

古代人と夢 夢みる権利

2024年01月03日 | 読書
初夢は、もともと大晦日から元日にかけて見る夢だったんだそうですね。

それが、大晦日に神様を寝ずに迎える習慣が広まると、元日から一月二日にみる夢になったのだとか。

この「初夢」の吉兆占いには、夢を聖なるものと考えた古代の名残が残っているのかもしれません。

国文学者の西郷信綱は、こんな風に記しています。

〈フロイトやユング以後の現代人は夢を、意識の底に沈んだ欲望や衝動、あるいは集団的無意識のあらわれと考える。……ところが、昔の人たちは、夢は神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号だと考えていた。蜻蛉日記の作者は石山寺に詣でて或る夢を見たとき、「仏のみせ給ふにこそはあらめと思ふに……」と記しているが、昔の人にとっては、夢はこうして神や仏という他者が人間に見させるものであった。〉
(西郷信綱『古代人と夢』)

オーストラリアのアボリジニは天地創造時代をdream timeと呼んでいます。古代人とは、いわば「夢を信じた人びと」でした。『日本書紀』の「崇神紀」には、王位を夢告で決めるエピソードが出てきます。夢は現実とはまた別の、もう一つの「うつつ」であったのです。

西郷信綱は、聖徳太子の夢殿や、親鸞の六角堂について、このように語ります。

〈救済としての宗教が目ざしたのも、死後なお生きるこの魂の救済にかかっていた。こうして魂の方が身体より長生きする。それだけでなく、実は魂の方が身体より古いのだ。私が魂を持つのではなく、私は魂の保管者なのである。……魂は自己のなかに棲む他者である。したがって危機に臨むとそれは我にもあらずあくがれ出もするが、同時に聖所のねむりに訪れる夢において、それはしばしば自己が自己を超越するという奇跡をも実現する。回心とは考えること、思惟することによってではなく、このように(夢に)見ることによって信が炸裂するのをいうのではないか。〉

魂は自己のなかに棲む他者であり、私とはこの魂の保管者にすぎない。このことばは、来るべき〈決戦〉で死を覚悟していた、当時18歳だった少年革命家のこころに深く刻まれたものです。

中世になる頃には、古代人の信じた夢の神性は、徐々に受け入れられなくなり、人びとは「夢」という神々と交わる回路を失ってしまいました。

『源氏物語』「若菜上」の明石入道の夢告のエピソードには、その転換期、過渡期の時代がよく表れています。明石入道は、須磨に流謫中の光源氏に逢い、娘の明石の上を献上します。そして二人の間にできた孫娘の明石の姫君が入内し、ほどなく春宮を授かり国母となったことを知ると、かくて大願成就の上は極楽往生疑いなしと娘の明石の上に最後の消息を送り、行方を絶つのです。

この消息文で、明石の入道は、娘が胎内にはらまれていた年の如月の晩に見た夢の一件を明かします。それは明石の上が授かる娘が国母となり、春宮は帝位につき四海を保ち、自分は隠遁し極楽浄土に至るという吉夢でした。

入道の夢を大願成就した後で明かすようにしたのは、紫式部が非凡なところです。もしこの夢を最初に語り、万事が夢のとおりに実現していくという具合にストーリーが展開したなら、源氏物語の第一部から第三部までを支える屋台骨の一つである明石一族の物語は、説話文学になり終わっていたでしょう。

紫式部も夢を信じた古代人でありながら、夢に関してはかなり醒めた見方をしていたことが、この描写からもうかがえます。

『太平記』の時代になると、すでに人びとが夢の神性を信じなくなっていたことがうかがえます。『太平記』には、鶴岡八幡宮で夢告を受けた相模守(執権)が、夢の老翁が「大いに取り立てよ」と語った関東武士に所領を与えようとすると、「私の首をはねろという夢をご覧になったのなら、咎(とが)はなくとも夢のとおりに実行されるのでしょうか」といって辞退したというエピソードが紹介されます。

現代では、一部の神秘家を除けば、人びとはもう昔のように、夜寝て見る夢に神や仏のお告げを読み取ったり、自分の運命を占ったりはしません。

しかしブルジョア社会の親不孝者ないしは蕩児たる芸術家や詩人たちは、古代人と同じでないにしても、ある意味では多少ともみな夢の信者でした。夢の意味を追求しシュルレアリスムに影響を与えたネルヴァル、心霊学や神秘主義に傾倒し日本の能の世界に深い関心を抱いたイエイツ、『夢十夜』を書いた夏目漱石、枚挙にいとまがありません。無意識の解放をめざしたシュルレアリスムの自動記述も、醒めながらに夢をみるための実験だったのかもしれません。

〈夢は想像力の絶対的な起源であり、自殺は想像力の究極の神話である〉
(ルートヴィヒ・ビンスワンガー/ミッシェル・フーコーの『夢と実存』)

フーコーがビンスワンガーの論文『夢と実存』に寄せた、本文の倍以上の「序論」の一節です。フーコーにとってデビュー作でした。

『言葉と物』でブルジョア社会の価値観を転覆する哲学的テロリズムを実践したこの歴史哲学者が、常に「死」とともにあったことを知り、衝撃を受けたものです。まるで太宰治や三島由紀夫のようでした。

ガストン・バシュラールの『夢みる権利』は、以前、このブログでも取り上げました。

バシュラールは構造主義の先駆者の科学哲学者であると同時に、夢や想像力を探求した詩的夢想家でもありました。だから、バシュラールというと、蝋燭やランプの灯りをたよりに革表紙の写本を読みふける、現代における隠者のようなイメージを抱いてきたのですが、実はラジオが大好きだという新しもの好きの一面もあったようです。『夢みる権利』には「ラジオと夢想」というエッセイが収録されています。

〈ラジオというものはまったく宇宙的な問題である。地球全体が喋りまくっている。……ラジオというものはまことに人間の精神(プシュケ)の全的実現、日常的実現である〉

バシュラールは現代のウェブに出会ったら大喜びしそうです。ウェブがラジオよりすぐれたメディアかどうかは別にして、ウェブの時代の地球は、ラジオの時代よりさらににぎやかに喋りまくっています。

もちろん、バシュラールはラジオを手放しに評価するばかりではありません。
以前このブログでは、『ラジオの戦争責任』という本を紹介しました。バシュラールは、ラジオの負の側面に直接言及するわけではないけれど、「アンテナ技師」とならんで、もうひとり、「精神の技師」ともいうべき存在が必要だろうと語っています。

〈ああ! 黙って! 隣人のことを話すことなどおやめなさい、奥さんのこと、上司の話、部下の話などはおやめなさい。あなた自身に戻って、あなたのいろいろな原型のポエジーを養いなさい、あなたの根まで降りてごらんなさい。……まことにラジオというものは醒めながらの並々ならぬ夢をわがものとしている。ラジオは、不幸な魂、暗鬱な魂たちに夜には告げてやらねばならぬ。「問題はもうこの地上にかかずらいながら眠ったりはしないこと、きみが選ぼうとしている夜の世界に戻ってゆくことなのだよ」と。〉

地上にかかずりあうことなく、夜の世界に戻ってゆくこと。中上健次の『枯木灘』だったか、「俺はこの夜の闇の中を歩いてきたのだ」というフレーズが好きでした。われわれは夜の世界、すなわち黄泉の国、根の国から来て、また夜の世界に帰っていく存在にすぎないのだと思います。

さて、私は古代人のように、あるいは同志フーコーやバシュラールのように、自己の根底にまで遡った闇の奥に、真実のビジョンをつかむことができるでしょうか。

毎週お参りにいく摩耶の大杉さんは、樹齢千年、幹周り8メートルの巨木です。半世紀前の天上寺の火災で火の粉を浴びて、樹勢がおとろえ、すでに枯死しているのですが、今も神々しく、ちっとも死んでいるように見えません「危険 立ち入り禁止 神戸市」と書かれた看板をひっくり返し、柵を越えて、崖っぷちの大杉さんのそばまで行きます。ところどころ苔むしてひんやりした木の幹を両手で抱いて、額を当て、しばらくじっとして過ごします。

摩耶の大杉さんが御神木なら、罰当たりな無神論者、唯物論者の私にこそ、霊験あらたかな夢のお告げをして、回心させてくれてもよさそうなものです。しかし何も見えませんし、何も聞こえてきません。あらためて、私たちはとうの昔に神々と交流する回路を失ってしまったことに気づきます。

しかし、それがどうして夢を見続け、追い求めることをあきらめる理由になるでしょうか? 憶良ではありませんが、「人こそ知らね杉は知るらむ」というだけのことです。


最新の画像もっと見る