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光抱く友よ--宝塚女子中学生放火事件断想

2010年07月19日 | 読書
 『AERA』7月19日号号、「女子2人の閉じた関係」を読む。

 宝塚の中学生の少女たちの放火事件では、A子の家族3人が死傷した。母親は亡くなり、父親と妹は重傷。A子は母親の連れ子で、両親は入籍していなかったらしい。

 ニュースを見て真っ先に思い出したのは、高樹のぶ子の『光抱く友よ』だった。

 『光抱く友よ』は何不自由なく育った優等生と不良少女、二人の女子高校生の友情物語だった。不良少女の母親はアルコール依存症で、娘を殴る描写がある。作品発表は1980年代で、舞台は作者が高校生時代を過ごした1960年代ではなかったか。まだ「児童虐待」ということばが、社会的に認知されていなかった頃だった。この事件のA子とB子は、母親の連れ子という共通点があったという。二人とも家庭的に恵まれた環境とはいえなかったようで、この点は小説とは異なっている。

 少年犯罪があるたび、メディアはすぐに大騒ぎになる。しかし実はこうした事件は、いつの時代にもありふれている。多少この事件に「時代」を感じるとすれば、計画的で周到、『ひぐらしのなく頃に』風にいえば「クール」な印象を与えるところだろうか。彼女たちは「皆殺し編」まで進めなかった、「祟殺し編」の圭一や「罪滅し編」のレナを想わせないでもない。

 ホームセンターで中学生にも入手しやすいバーベキューの着火剤を放火に使用したのは、彼女たちなりに考え抜いたのだろう。また、A子が友人に愛犬を預けていたり、着替えを用意していたという情報にも、覚悟の上の行動だったことがわかる。B子が両親を殺すことを思いとどまったのが、せめてもの救いである。

 ブラジル国籍のA子が母親と一緒に日本にやってきたのは、4歳の時だったらしい。彼女も1980年代以降増加するブラジル日系移民の一人だったのだろうか。
 
 自動車、バイク、テレビなどの製造工場のある静岡県には大勢の日系ブラジル人が住んでいる。現在日本に滞在するブラジル人は約30万人以上とされる。

 外国人による犯罪、子弟の非行、文化の違いによる地域社会との軋轢が存在しているのは事実だ。しかしブラジル人を含め、外国人労働者の存在なくして、日本経済は成り立たなくなっている。この現実を認めるところからしか、議論はスタートしないだろう。

 宝塚市でもブラジル人が増加しているという。1990年代末、コンビニの「ざるそば」などを作っている製麺会社が阪神競馬場そばに移転してきたのがきっかけらしい。その内訳を見ると、宝塚市では韓国・朝鮮籍(2239人)、中国籍(369人)に次ぐ328人。もっとも、宝塚市の人口は225,582人だから、ブラジル人はまだ圧倒的な少数派である。

 クラスメートたちは、A子がマイノリティ出身というだけで、「外人、ブラジルに帰れ」「くさい。同じ空気を吸いたくない」という心無い言葉を浴びせていたと『AERA』は伝えている。

 もしこれが事実ならば、このクラスメートたちは、この事件で一生、十字架を背負うことになるだろう。言葉は時に暴力よりも残忍である。人の尊厳を傷つけ、こころを歪めてしまう。いつの時代も若者は人の痛みを想像するにはまだ若すぎ、それゆえに残忍にもなれる。大切なのはもう同じ過ちを繰り返さないことだ。それが彼らが大人になるための裁きだ。

 もちろん、子ども社会が大人社会を映し出す鏡であることも忘れることはできない。

 ここで宝塚出身の手塚治虫の「禁則事項」を引用しておきたい。もちろん、「生命の尊厳とヒューマニズム」一般を語りたいわけではない。手塚自身、その看板を負担に感じて、つげ義春や水木しげるを羨ましがっていたのは、よく知られている。手塚がヒューマニズム一辺倒でなかったことは、『どろろ』『奇子』『MW』などの作品に明らかである。

 手塚治虫が漫画を描く際に、プロ・アマ、新人・ベテランを問わず、描き手が絶対に遵守しなければならない禁則としたのは、「基本的人権を茶化さないこと」だった。どんな痛烈かつどぎつい描写をしてもいいが、以下の事だけはしてはならないとしている。

 ・戦争や災害の犠牲者をからかう
 ・特定の職業を見下す
 ・民族、国民、そして大衆を馬鹿にする


 私は決して手塚ファンではないけれど、この三原則は、漫画に限らず、プロであれアマであれ、表現者が最低限守らねばならないルールだと考える。中国や北朝鮮の政治体制を批判しても、個々の中国人や朝鮮人は全く別だ。自分の惨めさや不自由さを外国人差別や見下すことでごまかしてはならない。本当に誇りのある人は、そんなことはしないものである。

 もちろん、彼女たちは決定的に間違えた。罪は罪である。殺してしまったものは帰らない。ブラジル国籍の少女Aは、小学校の卒業文集にこう書いていたという。

 《私の大切な友達はたくさんいます。……いろいろな話をしたり、もちろん恋の相談もしました。……中学校でもよろしくね》


 彼女たちが運命を共にするまでの親友を得たことは、何と素晴らしいことだろうか。私はそこに感動を覚え、希望さえ感じた。『光抱く友よ』を真っ先に思い出したのもそのせいだろう。

 そしてこの希望が、このような形でしか表現できなかったことを、残念に思う。親を殺しても、本当の問題の解決にもならないからだ。本当にほしかったのは親の愛情であり、人の優しさであり、友達ではなかったろうか。今は信じられないかもしれないが、いつか親のことも、いじめに走ったクラスメートたちも許せる日が来る。親も未熟な生身の人間にすぎないということは、親の年齢になれば自然とわかる。

 いま、マスコミやネット世論がどんな風に騒いでいるのかは知らない。しかし私には、こんな未来の見えない、救いのない社会を放置してきた大人たちが、焼き殺されたり刺し殺されないで済むとは思われない。それに、若者たちに怒りや憎しみの対象になり、いつか打倒され、乗り越えられるのが大人の役割であろう。彼女たちが罪を償い、今度こそ夢をかなえるために、自分自身の人生を歩みだすように祈らずにはいられない。

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1 コメント

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Unknown ()
2010-07-20 12:52:56
拍手コメントありがとうございます。
手塚三原則を絶対視するものではないです。ただ中学校の公民レベルの基本なくして、ネットに書き込む資格なんかないということかな(むろん、権利はあります)。大衆批判は必要でしょう。そこは毒蝮三太夫や綾小路きみまろの毒説芸に学ぼう。

しかしきっこのブログで、保坂のぶと落選は、石原を三選させる都民が民度が低くバカばかりだからだというのは論外。そいつらに負けているのは自分たちは何なのかと。石原は最低のファシスト野郎ですが、同レベルに落ちることはない。

このコメントは保坂のブログで読みました。支持者を大切にするのはいい。しかし自分に関連ある所だけ引用してありがとうでいいはず。同意見と思われても仕方ない。こういうのが一層支持率低落に拍車をかけるんですよ。
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