今週の11月24日はサンクスギビング・デー(収穫感謝祭)です。多くが次の日の金曜日も休みにして、4連休になります。
日本のお盆に似ていて、家族でサンクスギビングをお祝いします。
クリスマス休暇はもっと長く取るので、バケーションで遊びに行く人も多いのですが、サンクスギビングは、比較的家族が集まると云われています。
今週のアメリカ国内線の飛行機はどれも満席だそうです。
1620年12月、イギリスからわずか180トンのメイフラワー号にのって102人の入植者と27人の船員が大西洋を渡り、新大陸アメリカにやってきました。
アメリカ合衆国建国の父とされるこの102名の人々が実はオランダから来たイングランド人であることを知っている人は意外に少ないのです。
農民ウィリアム・ブルースターや後にマサチューセッツ総督となるウィリアム・ブラッドフォード以下40名の人々はイギリス国教会からの迫害から逃れて、まず1608年宗教的寛容の地オランダのアムステルダムへ移住します。
ところが、元来農耕を営んでいたこれらの人々はアムステルダムでの都会生活に馴染めず、翌年今度はライデンへ移り住みます。
しかし10年近くなったライデンでの生活は、もともとユートピア追求者であり聖者である彼らの信仰、伝統を危うくする要素が増える結果となり、第3の移住の地としてアメリカという新天地を目指すことを決定するのです。
ブラッドフォードが聖書に因んで自らを「この世の旅人」と呼んだことから、彼等は巡礼父祖(Pilglim Fathers)と呼ばれるようになります。
信仰を全うするため3度もの「集団移住」を重ねて初志貫徹した人々が作った国がアメリカ合衆国なのです
一旦イギリスへ戻り、ロンドン商人の資金援助と国王ジェームス1世からのヴァージニア植民地への入植許可を得た彼らは、新たな参加者を加えて102名の集団となり1620年9月16日イギリスのプリマス港を出港しました。
当時でもスペイン、フランス、イギリス等ヨーロッパの国々から多くの人が新大陸アメリカにやってきました。
メイフラワー号の彼等は家族揃って海を渡りましたが、家族を単位として移住したイギリス人はこの植民地が最初のケースになるのです。
しかし41家族からなる入植者は、34人の子どもが含まれていますが、102人の内50人だけがピルグリム(巡礼者)だったとも云われています。
船には家族用の小屋20軒分程のベッドやテーブルやイスを始めとして犬、山羊、羊、大量の調味料、オートミール、干肉と干魚等が積み込まれていましたが、なんと400樽ものビールが積み込まれていたとの話もあり、上陸を決めた際の航海日誌に「食べ物よりも何よりも、ビールが底をついてしまった」という内容が記述されている事には、ビックリさせられます。
実はイギリスからは「スピードウエル号」「メイフラワー号」の2つの船がアメリカに向け出発しましたが、出発してまもなく「スピードウエル号」に水もれが発見され、「メイフラワー号」のみがアメリカに向かうことになります。
予定通り7月の末に出発していたならば、まだ暖かい9月にはアメリカに到着していたはずだったのですが、結局「メイフラワー号」が出発できたのは9月6日になっていました。
1620年11月11日メイフラワー」号はイギリスを出発してから66日後、冬の到来・ケープコッド周辺の座礁の心配などにより仕方がなく、ケープコッドの先端現在のマサテューセッツ州プロヴィンスタウンの地で碇を降ろします。
2ケ月にも及ぶ長い航海の間に人々の疲れは限界にきていたのでした。当時は冷蔵設備がなく、食料は乾燥したものか塩づけにされたものだけでビタミン不足などで病気に苦しみ、さらに水の不足から着ているものの洗濯もできずに不潔な環境の中にいるしかなかったのです。
しかし周辺には定住に適した場所がなかったため、清教徒たちは定住に適した場所を探さなければなりませんでした。
彼らは最初の目的地であったバージニア植民地の3万2千ヘクタールの土地をはじめとして重要な漁業権、インディアンとの交易許可、そして広範な権限を持つ自主管理体制をつくる権利を獲得していましたが、たどりつく事が出来ずそれらは全く意味がないものになってしまったのです。
運良く「メイフラワー号」の航海士が定住に適した場所を知っていたのですが、それは1614年にこのあたりを探検したジョン=スミスの地図にあったマサテューセッツ湾の沿岸部で,その後その地をプリマスと名づけたのです。
彼等がプリマスに移住し始めるのは、12月に入ってからのことでした。長い船旅の後の疲れ・新鮮な食料の不足に加え、冬の寒さが人々を襲いました。住む家もなかった清教徒たちは、日曜日以外は毎日家を作るなどの作業に従事していたことも、体を弱らせる原因の1つになりました。折角、長い航海の末にアメリカにたどりついた人々も最初の冬を越せないままに、約半数が亡くなってしまったのでした(18名いた奥さんたちのうち、生き残ったのはわずか2名と伝えられています)。
清教徒たちを乗せてきた「メイフラワー」号は1621年4月5日、再びイギリスに向けて帰りますが苦しい生活にもかかわらず、イギリスに戻る道を選んだ人は1人もいなかったのでした。
ここまでの話で見方を変えれば、当時のイギリス社会の中の人からすれば、彼らはある種のカルト集団といっても間違いではないように思います。
個人の集まりと云うよりは、宗教で結ばれた運命共同体なのでしょう。
この新大陸で、ヨーロッパでの自分たちの生活の仕方が通用しない(つまり、携えてきた作物の種などが実らない)苦難の中、翌年1621年3月、奇跡が起こりました。
ある先住民(ネーティブ・アメリカンまたはインディアン)の男性が英語で「Welcome!」と叫んだのです。その先住民の男性はスクアント(Squanto)と呼ばれていますが、彼は奴隷としてヨーロッパに売られたが戻ってきたという過去を持っていました。そのために、英語を話すことができたのです。
スクアントと清教徒の人々はすぐに親しくなり、プリマス周辺に住むインディアン、ワンパノアーグ族の大酋長・マササイトに紹介しました。
マササイトと清教徒の人々はお互いの安全・信頼のために平和条約を結びます。これはアメリカにおける最初の相互条約です。
スクアント(Squanto)については:
当時イギリスの船(海賊も含め)が新大陸に頻繁にやってきていましたが、品物だけではなく,奴隷がいい商売になることが分かった商人は,その地方の強いインディアンを無理矢理イギリスに連れて行って商売にしていたのです。。そのうちの一人がスクアントだったのです。
その後再びスペインで奴隷として売られたスクアントの新しい主人がカトリックの修道士で,彼にキリスト教の信仰を教え,アメリカに帰るのを手伝ってくれたのです。(修道士が奴隷を買うなんて・・・・・・当時は当たり前だったのでしょうね)
1619年に再びスクアントはふるさとに帰ることができましが彼を待ち受けていたのは信じられないものでした。それは,イギリス人が持ってきた天然痘のため自分の部族は皆死んだと云うことでした。
隣の部族からその話を聞き,彼はその部族に移り住んで暮らすようになります。
1年たった時,そこにやって来たのが清教徒たちでした。彼を2度に渡って奴隷として売り飛ばしたのはイギリス人でした。彼の部族の人間全員を殺した天然痘を持ってきたのもイギリス人でした。敵対心を持つのは当然のことでした。しかし,スクアントはこの清教徒を助ける決心をしたのです。彼はスペインに住んでいた時にクリスチャンになっていました。そして,長くイギリスにいたので英語を話すこともできました。スクアントは清教徒たちに狩りのしかた,家の建て方,インディアンと仲良くなる方法,種の植え方,料理のしかたを教えました。
1621年秋になり、収穫の時期を迎え、日曜日以外は1日中働くと云われる清教徒も収穫を祝うお祭りをすることに決めました。日頃の感謝の気持ちを込めて、マササイトを初め90人ものインディアンも招待され、3日間にもわたって収穫祭が行われました。これが、アメリカで盛大にお祝いをされる「サンクスギビング・デイー」の始まりだと言われています。
この時に用意されたものが七面鳥やトウモロコシ、かぼちゃなど新大陸独特のご馳走なのです。
しかし、翌年にも祝った後は、清教徒とインディアンの催しは途絶えることになります。
なぜなら、インディアンとの関係が悪化し、戦争となったからです
その後ニューイングランド地方(アメリカ北東部の6州)の清教徒たちを中心に行われていた収穫に感謝するお祭りは、初代大統領ジョージ・ワシントンによってアメリカ独立後の1785年に、Pilglim Fathersの苦難をしのび宗旨宗派を超えて神に感謝をささげる為の祝日と定め,国民意識高揚をはかったのです。
でもその後のインディアン達の運命は悲惨です。
彼らは、サンクスギビングを祝いません。
コロンブスが新大陸を「発見」した当時、現在のアメリカ合衆国部分には200万人以上のインディアンが存在したと考えられていますが、25万人まで減って行きます(実際1000万から3000万のインディアンが死んだとも)。
そしてインディアン側の研究によれば、「最初の感謝祭」で、インディアンのワンパノアーグ族が大部分の食べ物を提供し、最初の感謝祭の本当の理由であるピルグリムにプリマスの土地の権利を正式に譲渡する条約にサインしたのです。
しかしこのあとすべてのインディアンが合衆国市民として認められたのは、ようやく1924年のことです。
1621年の秋、初めての感謝祭をお祝いする為にテーブルに着いた、2つの民族とその文化の明暗は、皆さんが知っている歴史です。。
その史実については誰も口を閉ざして、触れないようにしているように見えますし、私も彼らと同じ”モンゴりアン”としてその歴史の”ひかりと影”には、やりきれない気がしました。
世の中が感謝祭をお祝いする時、悲しい歴史をたどったアメリカ・インディアンの哀れを感じずにはいられないのも事実です。
サンクスギビング・デー(Thanksgiving Day)収穫感謝祭にまつわる、長~~~~~いお話でした。
(数字や人数、細かい所に多少の違いがあってもお許し下さい、アメリカ歴史の専門家ではありません~~~~~ので!!!)
日本のお盆に似ていて、家族でサンクスギビングをお祝いします。
クリスマス休暇はもっと長く取るので、バケーションで遊びに行く人も多いのですが、サンクスギビングは、比較的家族が集まると云われています。
今週のアメリカ国内線の飛行機はどれも満席だそうです。
1620年12月、イギリスからわずか180トンのメイフラワー号にのって102人の入植者と27人の船員が大西洋を渡り、新大陸アメリカにやってきました。
アメリカ合衆国建国の父とされるこの102名の人々が実はオランダから来たイングランド人であることを知っている人は意外に少ないのです。
農民ウィリアム・ブルースターや後にマサチューセッツ総督となるウィリアム・ブラッドフォード以下40名の人々はイギリス国教会からの迫害から逃れて、まず1608年宗教的寛容の地オランダのアムステルダムへ移住します。
ところが、元来農耕を営んでいたこれらの人々はアムステルダムでの都会生活に馴染めず、翌年今度はライデンへ移り住みます。
しかし10年近くなったライデンでの生活は、もともとユートピア追求者であり聖者である彼らの信仰、伝統を危うくする要素が増える結果となり、第3の移住の地としてアメリカという新天地を目指すことを決定するのです。
ブラッドフォードが聖書に因んで自らを「この世の旅人」と呼んだことから、彼等は巡礼父祖(Pilglim Fathers)と呼ばれるようになります。
信仰を全うするため3度もの「集団移住」を重ねて初志貫徹した人々が作った国がアメリカ合衆国なのです
一旦イギリスへ戻り、ロンドン商人の資金援助と国王ジェームス1世からのヴァージニア植民地への入植許可を得た彼らは、新たな参加者を加えて102名の集団となり1620年9月16日イギリスのプリマス港を出港しました。
当時でもスペイン、フランス、イギリス等ヨーロッパの国々から多くの人が新大陸アメリカにやってきました。
メイフラワー号の彼等は家族揃って海を渡りましたが、家族を単位として移住したイギリス人はこの植民地が最初のケースになるのです。
しかし41家族からなる入植者は、34人の子どもが含まれていますが、102人の内50人だけがピルグリム(巡礼者)だったとも云われています。
船には家族用の小屋20軒分程のベッドやテーブルやイスを始めとして犬、山羊、羊、大量の調味料、オートミール、干肉と干魚等が積み込まれていましたが、なんと400樽ものビールが積み込まれていたとの話もあり、上陸を決めた際の航海日誌に「食べ物よりも何よりも、ビールが底をついてしまった」という内容が記述されている事には、ビックリさせられます。
実はイギリスからは「スピードウエル号」「メイフラワー号」の2つの船がアメリカに向け出発しましたが、出発してまもなく「スピードウエル号」に水もれが発見され、「メイフラワー号」のみがアメリカに向かうことになります。
予定通り7月の末に出発していたならば、まだ暖かい9月にはアメリカに到着していたはずだったのですが、結局「メイフラワー号」が出発できたのは9月6日になっていました。
1620年11月11日メイフラワー」号はイギリスを出発してから66日後、冬の到来・ケープコッド周辺の座礁の心配などにより仕方がなく、ケープコッドの先端現在のマサテューセッツ州プロヴィンスタウンの地で碇を降ろします。
2ケ月にも及ぶ長い航海の間に人々の疲れは限界にきていたのでした。当時は冷蔵設備がなく、食料は乾燥したものか塩づけにされたものだけでビタミン不足などで病気に苦しみ、さらに水の不足から着ているものの洗濯もできずに不潔な環境の中にいるしかなかったのです。
しかし周辺には定住に適した場所がなかったため、清教徒たちは定住に適した場所を探さなければなりませんでした。
彼らは最初の目的地であったバージニア植民地の3万2千ヘクタールの土地をはじめとして重要な漁業権、インディアンとの交易許可、そして広範な権限を持つ自主管理体制をつくる権利を獲得していましたが、たどりつく事が出来ずそれらは全く意味がないものになってしまったのです。
運良く「メイフラワー号」の航海士が定住に適した場所を知っていたのですが、それは1614年にこのあたりを探検したジョン=スミスの地図にあったマサテューセッツ湾の沿岸部で,その後その地をプリマスと名づけたのです。
彼等がプリマスに移住し始めるのは、12月に入ってからのことでした。長い船旅の後の疲れ・新鮮な食料の不足に加え、冬の寒さが人々を襲いました。住む家もなかった清教徒たちは、日曜日以外は毎日家を作るなどの作業に従事していたことも、体を弱らせる原因の1つになりました。折角、長い航海の末にアメリカにたどりついた人々も最初の冬を越せないままに、約半数が亡くなってしまったのでした(18名いた奥さんたちのうち、生き残ったのはわずか2名と伝えられています)。
清教徒たちを乗せてきた「メイフラワー」号は1621年4月5日、再びイギリスに向けて帰りますが苦しい生活にもかかわらず、イギリスに戻る道を選んだ人は1人もいなかったのでした。
ここまでの話で見方を変えれば、当時のイギリス社会の中の人からすれば、彼らはある種のカルト集団といっても間違いではないように思います。
個人の集まりと云うよりは、宗教で結ばれた運命共同体なのでしょう。
この新大陸で、ヨーロッパでの自分たちの生活の仕方が通用しない(つまり、携えてきた作物の種などが実らない)苦難の中、翌年1621年3月、奇跡が起こりました。
ある先住民(ネーティブ・アメリカンまたはインディアン)の男性が英語で「Welcome!」と叫んだのです。その先住民の男性はスクアント(Squanto)と呼ばれていますが、彼は奴隷としてヨーロッパに売られたが戻ってきたという過去を持っていました。そのために、英語を話すことができたのです。
スクアントと清教徒の人々はすぐに親しくなり、プリマス周辺に住むインディアン、ワンパノアーグ族の大酋長・マササイトに紹介しました。
マササイトと清教徒の人々はお互いの安全・信頼のために平和条約を結びます。これはアメリカにおける最初の相互条約です。
スクアント(Squanto)については:
当時イギリスの船(海賊も含め)が新大陸に頻繁にやってきていましたが、品物だけではなく,奴隷がいい商売になることが分かった商人は,その地方の強いインディアンを無理矢理イギリスに連れて行って商売にしていたのです。。そのうちの一人がスクアントだったのです。
その後再びスペインで奴隷として売られたスクアントの新しい主人がカトリックの修道士で,彼にキリスト教の信仰を教え,アメリカに帰るのを手伝ってくれたのです。(修道士が奴隷を買うなんて・・・・・・当時は当たり前だったのでしょうね)
1619年に再びスクアントはふるさとに帰ることができましが彼を待ち受けていたのは信じられないものでした。それは,イギリス人が持ってきた天然痘のため自分の部族は皆死んだと云うことでした。
隣の部族からその話を聞き,彼はその部族に移り住んで暮らすようになります。
1年たった時,そこにやって来たのが清教徒たちでした。彼を2度に渡って奴隷として売り飛ばしたのはイギリス人でした。彼の部族の人間全員を殺した天然痘を持ってきたのもイギリス人でした。敵対心を持つのは当然のことでした。しかし,スクアントはこの清教徒を助ける決心をしたのです。彼はスペインに住んでいた時にクリスチャンになっていました。そして,長くイギリスにいたので英語を話すこともできました。スクアントは清教徒たちに狩りのしかた,家の建て方,インディアンと仲良くなる方法,種の植え方,料理のしかたを教えました。
1621年秋になり、収穫の時期を迎え、日曜日以外は1日中働くと云われる清教徒も収穫を祝うお祭りをすることに決めました。日頃の感謝の気持ちを込めて、マササイトを初め90人ものインディアンも招待され、3日間にもわたって収穫祭が行われました。これが、アメリカで盛大にお祝いをされる「サンクスギビング・デイー」の始まりだと言われています。
この時に用意されたものが七面鳥やトウモロコシ、かぼちゃなど新大陸独特のご馳走なのです。
しかし、翌年にも祝った後は、清教徒とインディアンの催しは途絶えることになります。
なぜなら、インディアンとの関係が悪化し、戦争となったからです
その後ニューイングランド地方(アメリカ北東部の6州)の清教徒たちを中心に行われていた収穫に感謝するお祭りは、初代大統領ジョージ・ワシントンによってアメリカ独立後の1785年に、Pilglim Fathersの苦難をしのび宗旨宗派を超えて神に感謝をささげる為の祝日と定め,国民意識高揚をはかったのです。
でもその後のインディアン達の運命は悲惨です。
彼らは、サンクスギビングを祝いません。
コロンブスが新大陸を「発見」した当時、現在のアメリカ合衆国部分には200万人以上のインディアンが存在したと考えられていますが、25万人まで減って行きます(実際1000万から3000万のインディアンが死んだとも)。
そしてインディアン側の研究によれば、「最初の感謝祭」で、インディアンのワンパノアーグ族が大部分の食べ物を提供し、最初の感謝祭の本当の理由であるピルグリムにプリマスの土地の権利を正式に譲渡する条約にサインしたのです。
しかしこのあとすべてのインディアンが合衆国市民として認められたのは、ようやく1924年のことです。
1621年の秋、初めての感謝祭をお祝いする為にテーブルに着いた、2つの民族とその文化の明暗は、皆さんが知っている歴史です。。
その史実については誰も口を閉ざして、触れないようにしているように見えますし、私も彼らと同じ”モンゴりアン”としてその歴史の”ひかりと影”には、やりきれない気がしました。
世の中が感謝祭をお祝いする時、悲しい歴史をたどったアメリカ・インディアンの哀れを感じずにはいられないのも事実です。
サンクスギビング・デー(Thanksgiving Day)収穫感謝祭にまつわる、長~~~~~いお話でした。
(数字や人数、細かい所に多少の違いがあってもお許し下さい、アメリカ歴史の専門家ではありません~~~~~ので!!!)
感謝祭には そんな歴史があったのですね。。。。 まったく知りませんでした。
華やかに発展していたように見えるアメリカにも 語るに忍びないくらい過去もあったのかと、、 ちょっと感傷的になりました。
改めて 先祖達への感謝の気持ちで アメリカでの初めてのサンクスギビングを迎えられそうです。
宗教の自由と平等を手に入れるため新天地を目指した彼らをしのんで、感謝祭をお祝いしたいものです。
アメリカの都市化とともに本来の収穫祭の目的を見出すのは難しいのも本当ですけどね。
"Happy thanksgiving!"きゃんでぃーさん.
これが終わると町中クリスマス一色になります。
Happy thanksgiving.
私もアダルトスクールでは色々アメリカの祝日のいわれなど習いましたが、今回は少し深く調べて見ました。
来た当初は家族が集まって、1日中食べたり飲んだりして過ごすこのお祭りをすごいと思いました。
日系人のお宅にお呼ばれして「また食べるの??!!」って感じでしたもの。
でも酔払い運転の事故が1番多い日とも聞いていますので、この日の外出は気をつけましょうね。
祝日となる日には、必ず「歴史」がからんでいたり、宗教的なことだったりと、いろいろですが。深いお話で、ちょっと感傷的になっちゃいます。
こちらは、単なる祝日イメージがありますが(ちなみに、今日、勤労感謝の日ですが)、毎年仕事で、休んだことがありません。。
アメリカみたいに、一斉に休みたいものです。
私は、歴史にとても弱く、かつ、関心も余りないのですが、そんな私でもblogを開いた途端ひきこまれました。
ピューリタンとかアーミッシュとか、確かにアメリカにはカルト的なストイックな集団が生まれていますが、それくらいの強い精神的な繋がりがないと、到底、生き残れなかったのでしょうね。
アーミッシュにはちょっとあこがれました・・・あのおそろしくシンプルな生活様式に。確か『刑事ジョンブック』が、アーミッシュの事件を解決する映画でしたね。ハリソン・フォードとトップガンの女優さん(???・マクギリス?)が主演でした。
ごめんなさい。話が大きくそれてしまいました。
Thanksgivingのお話ありがとうございました。
「歴史を語るのは勝者の側」といわれるように、実際の真実とは関係なく、国に都合よく歴史は組み立てられていく事が多いのです。
実際アメリカにどれだけのインディアンが存在していたのかさえもはっきりしないわけです。
人も文化も滅び行くものって、全てこんなものなんでしょうね。
日本だってアメリカより長~~~い歴史があって今があるわけですから、日の当たらないことっていっぱいあるんでしょうけど。
お忙しそうですけど、年末を控え体に気をつけて下さいね。
rock娘さん
刑事ジョンブックは私も見ました。
電気も車もない生活を未だにしていアーミッシュの方々・・・・・・私にはて・・・・・・・・・・不思議です。
神の教えだけに従い個人の志向は二の次なんでしょう、本人達が幸せならいいって言えない事も出てきそうですけど。
ホントに広いアメリカで、他の州が外国みたいに思えることもあります。
なかなか興味深いお話で勉強になりました。
実はアメリカン・インディアンは最初から迫害されていたのかと思っていたので意外でした。
こんな友好の歴史から始まっていたんですね~。
また遊びに来ますね♪
それでは~(^-^)/
収穫祭というとのんびりした響きもありますが、本当は結構おくが深いものなんですよね~~~。
白人とインディアンでは受け止め方もまったく違いますし・・・・・・
アメリカに住むアジアからの移民にとっても、日系人強制収容所の問題(http://blog.goo.ne.jp/laflyfisher/e/815202ed6492162861162f9640cda119)とあわせ考えると、胸にトゲが残る事実です。