12月25日夕~28日朝まで、レンタカー込の格安パックで沖縄を旅行した。高速にのるまでの那覇市内は恐るべき渋滞で、夜中近くに恩納村のホテルに到着した。
26日は、朝早く出発し名護市内を横切って、オスプレイ用のヘリパット増設に反対して座り込みを続けている高江のテント村に直行した。テントの向かいの道路沿いに垂れ幕が並び、見張り番の人が座っていた。テントの中では、京都から来たという、子供連れの若い夫婦達が、説明を聞いていた。私達も、続いて話を聞いた。クリスマス休暇ということで、米軍の飛行訓練もジャングル戦闘訓練も休みとのことだったが、24時間の座り込みも警戒も解いていなかった。“沖縄は変わりました。辺野古もここも一体です”と。青い空の下に広がる山原の森全体が米軍基地であること、貴重な動植物にダメージが広がってしまうことなど、山原を眺めながら、2時間近く話をした。その後、唯一、住民も共用できるという山原の中の道を走って、辺野古へ向かった。
海に近づいて、道を大きくカーブしたところ、両側の道端に沢山の人達と長く続いているテントが、突然、目に入ってきた。“ゲート前に着いたんだ”とすぐ分かった。沢山の人で駐車も出来なかったので、歩いている人に尋ねると“僕が乗るバスの後に附いてきて、漁港の駐車場に止めて”と言われた。バスが着いた所は、辺野古のテント村だった。バスに乗っていたのは、辺野古を訪れた若い人達のグループだった。私達も一緒に説明を聞いた。説明をしてくれた方は、“この闘いは19年続いている、辺野古の海は宝物、辺野古に新基地は造らせない。ぼく達はあきらめない。相手より1日だけ長く頑張る“と話を締めくくられた。沖縄の人々の思いが詰まった言葉が、ズシンと響いてきた。テントに、写真家の山本英夫さんが居られたので、「大阪から連帯するためバナーを預かってきたんですけど・・」と言うと、世話役の女性の方に話をつなげてくれた。山本さんは、「ぼく、以前にこのグループの人達と写真展をやったんです」と、話に加わってくれた。人が多くて、少ししか話はできなかった。
時間がなくて、再びゲート前にもどることは出来なかった。報道によると東京から派遣された機動隊が、年末年始の首都の警戒のため帰ったそうで、ゲート前では、歌や踊りなどもあって、参加者が交流を深めているそうだ。
辺野古から那覇市にもどった。夜に、買ってきた「琉球新報」をめくると、一面トップに、「県が国を提訴」という大見出しで、「取り消し停止「違法」」、「県民の誇り、尊厳守る」という翁長知事の工事阻止への決意が述べられていた。
27日は、朝に58号線を北上して、嘉手納町の道の駅まで、直行した。58号線の両側は、空軍基地と海側の米軍基地のフェンスが延々と続いていた。道の駅の建物は海側の基地フェンスが途切れた道路沿いに建っていた。4階は、展望台になっていて、北谷町、読谷村にまたがる広大な嘉手納空軍基地をかなり遠くまで見ることができた。3階は、常設展示室になっていた。部屋の壁に沿って、フェンスを張り、壁には、嘉手納町の歴史や、人々の暮らし、町の面積の87%を占める米軍基地の実態などが、フェンスの中から、見ているような感覚になるように、展示されていた。映像も見られるようになっていた。クリスマスに続く休暇中ということで、飛行訓練はなく、住民を悩ましている爆音はない日だった。
午後は、修理と再建が進み、観光客であふれる首里城に行き、那覇市を眺めた。その後、県庁前のビルで、開催されていた、“琉球処分と沖縄”ということがテーマになっている展示会を見に行った。膨大な数の当時の書類や写真、文化物、郵便制度の変遷を示す現物など大掛かりなものだった。明治政府によって、「ヤマト化」がいかに強権的に進められたかを改めて知った。沖縄を「捨石」にしてきた歴史の始まりも、その後の歴史も、私達はどれだけ知っているだろうか。
28日、朝、レンタカーを返却。空港で時間待ちをした。那覇空港は陸海空自衛隊基地が、併設されている。待合室から、戦闘機が並んでいるのがまるまる見えていた。それだけでない。年末で、民間機に遅れが出るほど込み合っているのに、その合間に、民間機と同じ滑走路を使って、戦闘機がすごい爆音をさせながら、4機も飛びたったのだ。28日は祭日ではない。これが沖縄の日常、これが沖縄の現実なのだと痛く思い知らされた。丸2日間の沖縄の旅だったが、知りえたこと、聞いたことを一人でも多くの人に伝えて、沖縄の闘いを支持し、共に闘うひとが増えてほしいと強く思った。
(アーさん)