この日、何の日? ──中国が喰われていった日々 ①(続)
・勝てる相手になら、いちゃもんをつけてみる
1842年の南京条約によって香港がイギリスの植民地とされたことは、中国にとってたいへんな屈辱でした。反イギリスの機運は中国各地で高まり、特に広州では、外国人排斥の運動が活発になりました。
南京条約でいくつもの権益を獲得したイギリスですが、それだけでは満足できませんでした。中国の人々の抵抗を抑え、さらなる戦利品を得るために、武力行使の準備をしていました。
そんな中、1856年10月8日、中国の役人が中国船アロー号を海賊船の嫌疑で臨検し、乗務員を逮捕するという事件が起きました。アロー号はそもそもアヘンの密輸を行っていましたが、アヘン戦争後、それは事実上容認されていました。
イギリスが問題としたのは、アロー号が英国船籍の船なのに、中国が権限もなく臨検を行って乗務員を逮捕し、英国旗を引きずり下ろしたということでした。
ところが、実際のところ、この10月8日の時点で、英国船籍としての期限は切れていたのです。にもかかわらず、イギリスはこの臨検が不当であり、掲げられていた(かどうか不明の)英国旗が毀損されたという、まったくの言いがかりをつけたのです。
そして、10月23日には香港総督の指示により、英海軍が広州沿岸を攻撃しました。
イギリスのパーマストン首相は、これを受けて本国軍の派遣をしようと議会に諮りました。しかし、いったんは反対多数で否決されました。
ここでパーマストン首相は、解散総選挙に打って出ました。そして、中国に対して強硬な態度を取るべしというキャンペーンを張り、反対派の議員を落選させました。その結果、今度は悠々と議会の支持を取り付けて、派兵を行ったのでした。
・勝ち馬に次々と乗る列強諸国
イギリスはさらにフランスにも呼びかけました。
フランス皇帝ナポレオン三世もまた中国を狙っていました。実はこの年1856年2月29日には、フランス人宣教師が、外国人の立ち入りが許可されていない地域で布教活動をおこなったということで逮捕・処刑されたという事件がありました。フランスはこれを口実としてイギリスと連合軍を結成しました。
これはアロー戦争、あるいは第二次アヘン戦争とも呼ばれています。英仏連合軍の猛攻にまたしても敗北し、中国は1858年に天津条約を、1860年に北京条約を締結させられました。
これらの条約によって、香港島だけでなくの対岸の九龍半島南部をもイギリスに割譲することになりました。さらには仲介に入ったロシアにも沿海州の領有を認めさせられました。中国にとっては、まさに踏んだり蹴ったりの状況です。
(つづく)