『南軍旗』掲揚問題を急浮上させた教会銃乱射事件
6月17日、アメリカのサウスカロライナ州チャールストンにあるアフリカ系アメリカ人が多く通う教会で、銃乱射事件が起きて9人が射殺されました。犯人とされる21歳の白人青年は、日頃からアフリカ系アメリカ人に対する敵愾心を露わにする文章をネット上に掲載しており、犯行声明ではないかと見られる文章では、「黒人の『劣等性』に言及した上で殺人行為を正当化している」(6月19日「産経ニュース」電子版)などと報じられています。この事件は、おぞましいヘイトクライム(憎悪犯罪)として、アメリカだけでなく全世界の関心を集めています。この白人青年が、自らの思想の象徴的表現として『南軍旗』を掲げていたことが、『南軍旗』とヘイトクライムとの関係を改めてクローズアップさせたのでした。
アメリカでの唯一の内戦である南北戦争と『南軍旗』
『南軍旗』は、1861年から4年間に渡って闘われた南北戦争において、南軍が掲げた旗でした。内戦は62万人を越える死者を出した末、北軍の勝利に終わりました。このとき南軍が掲げた旗が『南軍旗』であり、北軍が掲げた『北軍旗』が、今の米国国旗『星条旗』です(その後州が増えてデザインは少し変わりましたが)。
当時、アメリカは34の州からなる合衆国でした。南部では、奴隷制度が残存していて、アフリカ系アメリカ人400万人は、文字通りの奴隷として大農園主たちの専制支配の下に置かれていました。北部では、資本主義的生産様式が急速に発展し、労働力の確保と市場の拡大ために、南部の閉鎖的前資本主義的経済圏の解放(資本主義化)という強い衝動力が働いていました。対欧州との関係でも、北部は国内経済防御のための保護主義を、南部は欧州への綿花輸出促進のために自由貿易を追求して、南北の対立は抜き差しならない状態に陥りました。
1860年11月にエイブラハム・リンカーンが大統領に当選すると、南部に奴隷制が廃止されるのではないかという不安が一気に広がりました。今回、教会銃乱射事件が起こったサウスカロライナ州が、60年12月に真っ先に合衆国を脱退し、61年2月までに7つの州が脱退して『アメリカ連合国』を結成しました。その後4つの州が加わり、南部諸州の『アメリカ連合国』は11の州を擁することになり、残り23州が『アメリカ合衆国』に留まりました。
61年3月にリンカーンが大統領に就任。その直後の4月12日、南軍が北軍のサムター要塞を攻撃したことによって、南北戦争の火蓋が切られました。この時の南軍の旗こそ、今問題となっている『南軍旗』なのです。
『南軍旗』は奴隷制の象徴
『旗』というものは、それを用いる集団のシンボルです。その集団の本質を『旗』に意味付与し、その『旗』の下に集団の結束を図るものです。『国旗』の場合は、国という集団の本質を象徴するものであり、そのように意味付与されています。『南軍旗』は、前近代的奴隷制経済体制を守護するという11州からなる『アメリカ連合国』の本質の象徴であったのです。もしろん、『国旗』には、その国の本質だけでなく、副次的な特質も対象化されています。時には、その国家の本質を覆い隠すために、文化的特質や風土的特質なども対象化されることがあります。しかしそれはあくまで副次的なものです。今日、『南軍旗』の掲揚を擁護する人々の中からは、「『南軍旗』は奴隷制の象徴ではなく、アメリカ南部の文化的伝統の象徴だ」との声も聞かれます。しかし、それは『南軍旗』が象徴していたものの本質ではありません。「アメリカ南部の文化的伝統の象徴」であるなら、『南軍旗』ではなく、それに相応しい『旗』があるだろうし、また作れば良いのであって、そうせずに『南軍旗』に固執するのは、如何に弁解しようが、奴隷制を擁護した過去を懐かしみ、弁護することになってしまうのです。
長年に渡って州庁舎前に掲げられてきた『南軍旗』
そのような『南軍旗』が、長年に渡って州議会議事堂前に掲げられてきたという事実は驚きです。しかし実際は、『南軍旗』が南北戦争以来ずっと州議会議事堂前に掲げられてきたわけではないのです。南北戦争終結後、公的機関に『南軍旗』が公然と掲げられることはありませんでした。勝利して南部諸州を再統合した『アメリカ合衆国』は、すべての公的機関に『星条旗』を掲げさせたのです。『南軍旗』を守護して掲げ続けて来たのは、白人至上主義犯罪者集団KKKでした。『南軍旗』は、その本質に相応しいレイシズム(人種主義)犯罪集団によって守られてきたのでした。
しかし1961年、南北戦争100周年を記念して、『南軍旗』がサウスカロライナ州議会議事堂に蘇りました。もはや過去は忘却の彼方に去り、「南部の古き良き伝統」の象徴として『南軍旗』は受け入れられるべきだ、ということでしょうか。60年代はまだ、アフリカ系アメリカ人にとっては公民権すら保障されなかった時代です。68年4月には、公民権運動の中心人物であったキング牧師が暗殺されています。そのような状況での『南軍旗』の復活は、単なる「南部の古き良き伝統」に対するノスタルジア(郷愁)などではなく、公民権運動に対する反動派の巻き返しと見るべきでしょう。従って、アフリカ系アメリカ人たちは、粘り強く『南軍旗』の議事堂からの撤去を要求して闘います。そして2000年、『南軍旗』は州議会議事堂の外に移されることになりました。しかし、それはただ建物の外へ、議事堂前広場に移されただけでした。『南軍旗』に執着する勢力もそれほどに執拗だったのです。そして今回の事件です。7月10日、『南軍旗』は広場からも退場することになりました。これに対して、白人至上主義犯罪者集団KKKは、公然と姿を現して『南軍旗』を守護せよと叫び、『南軍旗』の撤去を求める反差別人権擁護諸団体の人々に暴力を振るうなど、積極的な反撃に打って出ています。再び三度、ヘイトクライム無差別殺人事件が引き起こされる恐れもあります。レイシズム、ヘイトクライムを封じ込める活動が、今こそ強く求められています。
『北軍旗』=『星条旗』の掲揚について考える
『南軍旗』は、歴史博物館に陳列し、その歴史的意味を後世に伝えるべきでしょう。では『北軍旗』=『星条旗』の掲揚はどうでしょう。それが北部諸州の利害と一致したとはいえ、南軍を打ち破って奴隷解放に大きく踏み出した当時の状況では、『星条旗』は進歩を象徴していました。しかし今日の『星条旗』は何を象徴しているのでしょう? イラクやアフガンの人々はもちろんのこと、第3世界と呼ばれる国々の人々にとっては、小国の主権を認めることなく、世界を軍靴で踏みつけて回る『ならず者』を象徴しているのではないでしょうか。フランスの『三色旗』も、フランス革命の時代には、進歩の象徴でした。しかし、今日の『三色旗』は、もはや進歩の象徴ではありません。やはりフランス帝国主義の『旗』として、ひるがえっているのです。
『国旗』は、その時代の国の本質を象徴するものです。時代とともに象徴するものが変わります。進歩を代表しなくなった『国旗』は、進歩を代表する『国旗』と取り換えられなければなりません。支配階級は、現在の体制を象徴する『国旗』を守護しますから、『国旗』を取り換えるためには、権力の担い手を代える以外にありません。人民が国家の真の主人公になり、それに相応しい『国旗』を創ればよいでしょう。
『国家』も『国旗』もいらない?!
「そもそも『国家』は民衆にとっては悪であり、従って『国旗』そのものが悪だ」という考えもあります。確かに、かなり先の将来、『国家』なるものは自然消滅するべきだと思います。しかし、その前提として、世界が形式的な法的平等だけでなく、搾取のない経済的平等が実現された延長線上に、そのような自然消滅が考えられると思います。しかし、搾取があり、富を持つ者が支配する国家が存在する限り、人民が真の主人公となった『国家』が、ただちに『国家』を廃止することは出来ないでしょう。今日、巨大帝国主義との死闘を繰り広げている第3世界の国々が、自国の独立を守り、自分たちの歴史を象徴する『国旗』を大切にするのは当然のことです。もっとも、民主的な国家であるなら、国の象徴である『国旗』に対する諸個人の対応は、あくまで諸個人の自由意志に任されるべきであって、強制すべきものでないことは言うまでもありません。
ひるがえって『日の丸』
さて、『日の丸』です。『日の丸』の歴史はそれほど古いものではありません。意匠として『日の丸』が用いられたのは、かなり古くまで遡れるようですが、『国旗』としての『日の丸』は、幕末以降のことです。その時以降、第2次世界大戦が終了するまでの100年間、『日の丸』は何を象徴していたのでしょう。安倍総理とそのお仲間たちは、明治以降の日本を「短期間に産業革命を成し遂げた世界に誇れる素晴らしい国」だと言います。「短期間での産業革命」には、『足尾鉱毒事件』に象徴される甚だしい公害と、『女工哀史』に象徴される労働者の悲惨な使い捨てが伴いました。アジアにおける日本の覇権の伸長は、朝鮮、台湾の植民地化と、やがては満州の占領と、中国全土を戦場とする15年戦争、そして東南アジア全域への侵略の拡大と太平洋戦争へと突き進み、1945年の敗戦を迎えます。この100年間の日本を象徴する『日の丸』を、日本の周辺国の人々はどう見たのでしょうか。それは侵略と略奪の象徴でした。また国内ではどうだったでしょう。『日の丸』は、無条件絶対服従を国民に敷いた天皇制絶対主義国家の象徴でした。侵略と絶対専制の象徴である『日の丸』は、敗戦と新憲法制定と共に、廃棄されるべきものだったのです。新憲法に相応しい『国旗』が制定されて当然だったのです。
戦前の国家と今日の国家の継続性
日本の支配層は、敗戦占領という状況下で、いやいや新憲法を受け入れました。そうしない限り、もっと民主的な憲法ができる可能性さえあったからです。彼らは、新憲法を受け入れながらも、戦前の国家に対する批判を、決して受け入れようとはしませんでした。昭和の20年間、絶対主義専制国家の最高責任者であった天皇は、何ら罪を問われることなく、象徴天皇として新憲法の中でしかるべき地位を保ちました。多くの官僚たちが、そのまま新国家の要職に留まり続けました。彼らは、自分たちの犯罪について何らの反省もせず、日韓併合についても、「合法的であった」という見解を守り通してきました。侵略と抑圧の事実を認めようとはしませんでした。わずかに、村山内閣の時に、極めて不十分であったとはいえ、戦前の侵略と抑圧について言及し、一定の反省を示した。しかし、その反動は直ぐにやってきて、今や、村山談話も河野談話も抹殺されようとしています。
敗戦後しばらく、政府や高級官僚が、公然と戦前の体制の復活を公言することは憚られました。そこで、右翼諸団体が彼らを代弁して、戦前の体制の賛美とそれへの復古を宣伝する役割を担いました。『日の丸』と『君が代』は右翼の街宣車のシンボルとして護持されました。『南軍旗』がKKKによって護持されたように。『日の丸』も『君が代』も、『国旗』と『国歌』として復活するのは1999年、戦後50年以上経過してからでした。それほどに、諸外国と国内の『日の丸』と『君が代』に対する反発が強かったわけです。支配者たちは、むしろ『国旗』と『国歌』を法制化することに慎重であったとも言えます。何故なら、戦後の早い時点で『国旗』と『国歌』を法制化しようとしたら、『日の丸』と『君が代』でないものが『国旗』と『国歌』になった可能性も排除できなかったからです。彼らは、実質的に、『日の丸』と『君が代』を『国旗』と『国歌』であるかのように使用の定着化を図りつつ、内外の反応を計って『日の丸』と『君が代』の法制化を行ったのです。
今や、安倍首相とそのお仲間は、戦前の日本を象徴した『日の丸』と『君が代』に相応しい国に、日本を作り変えようとしています。すなわち、戦争のできる国へ、『国家』=政府に対する批判を許さない国に。
結局は人民が過去を清算する以外にない
しかし、戦前・戦後を貫いて『日の丸』が『国旗』であり、『君が代』が『国家』であるのは、日本人民が、自分たちで過去を清算できていないからです。新憲法は、人民が闘い取ったのではなく、反ファッショ連合国の圧力によって与えられたものです。天皇制を廃止して共和制にできなかったのも、人民の自覚不足と闘争経験の不足によるものです。従って、『日の丸』と『君が代』を葬るためには、人民が国の真の主人公となって、自分たちに相応しい『国旗』と『国歌』を闘い取ることが必要です。人民が、自分たちで、過去を清算する以外にありません。『南軍旗』問題は、現在起きている歴史的出来事であり、この問題を考えたり話したりすることは、『国旗』を考える絶好の機会だと思います。(老居子)