この日、何の日? ──中国が喰われていった日々 ①
1840年6月28日は何の日かご存じでしょうか。それは今から182年前、イギリスが中国(清)に対して戦争を仕掛けた日です。中国がイギリスのアヘンを拒絶したという理由で。
中国が列強諸国に侵略され、半植民地状態にされていく状況はここから始まりました。
・紅茶の返礼はアヘン──それが大英帝国のやり方
イギリスでは18世紀末に産業革命が始まりました。蒸気機関と機械化により、まずは紡績の分野で、以前よりずっとわずかな労働力で多くの製品が生み出されるようになりました。
これで人々の暮らしは楽になったでしょうか。いいえ。機械は24時間動くので、夜勤や長時間労働が当たり前のようになりました。そして、これまで成人の熟練労働者を必要としていた仕事に、未熟練労働者や子どもが導入されるようになり、熟練労働者は職を失っていきました。これまでなら父親が働いて家族の暮らしを支えていたところ、父親は失業し、その代わりに妻子がみんな働いてようやく父親が得ていた賃金を手にするということにもなりました。労働者の地位も不安定で、雇用は景気の浮沈次第でした。
このような産業構造の変化で、憂さを晴らすために庶民の間では深酒に浸る者も増えていきました。そうした中、酒よりも紅茶の方が体によいと、紅茶を飲む習慣を庶民の間に広めようという動きが起こりました。1837年に即位したヴィクトリア女王も率先してそのキャンペーンに努めました。かくして元々上流階級の贅沢な嗜好品であった紅茶が庶民の間にも広がっていきました。そして、この紅茶は主として中国からの輸入に頼っていました。
産業革命によって、イギリスでは自国で消費しきれないほどの大量の織物が生産されていきました。そして、それを売りさばくために、飽くことを知らない貪欲さで世界中に販路を求めていきました。
イギリスは植民地のインドに対して、工場で作った安価な綿製品を大量に売りつけ、手作業を主としていた現地の綿産業に壊滅的な打撃を与えました。
膨大な人口を抱える中国に対してもイギリスは狙いをつけていました。しかし、自前で織物を生産している中国にとって、イギリスの綿製品はそこまで必要のないものでした。逆に紅茶ブームとなったイギリスは中国の茶を大量購入せざるをえなくなり、その支払いのために、銀(当時の主要な貿易通貨)がどんどん中国に流れていきました。
そこでイギリスは卑劣な手段を考えつきました。綿産業が衰退したインドでケシの栽培を奨励し、そこから生み出されるアヘンを中国に密輸入させたのです。アヘンは強い依存性のある麻薬です。ひとたび吸引の習慣が身につけば、禁断症状にさいなまれ、やめるにやめられなくなってしまいます。心身を蝕むことがわかっていても、入手のためにお金を惜しまなくなります。こうして、イギリスはマフィア顔負けのやり方で、中国から銀を手に入れていきました。
中国ではアヘン中毒者の増加に加えて、銀の流出による国内の経済の混乱がおきました。こうした状況を見過ごすわけにはいかないと、皇帝は、アヘン追放の急先鋒であった林則徐を大臣に取り立て、彼にアヘンの厳格な取り締まりを命じました。彼は商人たちにアヘン持込禁止の誓約書を要求し、それを拒否したイギリス商人のアヘンを没収し処分しました。
中国にとっては、人々の生命と健康、財産、そして主権を守るための当然の処置であったわけですが、イギリスはこれに逆恨みをし、1839年10月1日に、閣議で中国出兵を決定しました。
・そして「不義の戦争」が始まった
翌1840年1月、ヴィクトリア女王は議会で、中国で起こった出来事は「臣民の利益と王室の尊厳に関わる事件」だとする演説をおこないました。一方、野党からはアヘンの保護のための戦争は「不義の戦争」だという批判もありましたが、結局は僅差で出兵費用が承認されてしまいました。
そして、6月28日、派遣された軍隊が広州沖に現れました。これがアヘン戦争の始まりです。
イギリスの近代化された艦隊に対して、中国の船は昔ながらの木造帆船でした。海軍のこの差が戦争の帰趨を分けました。中国は沿岸部の都市を次々と占領され、南京にまで迫られ、政府は戦意を失いました。
この結果、1842年に結ばれた南京条約で、中国は莫大な賠償金の支払い、従来の許可制の貿易制度の廃止、貿易港の増加などを約束させられました。香港島がイギリスに割譲されたのも、この条約の結果でした。
その翌年、さらに治外法権などの不平等条項が追加されました。フランスやアメリカも、どさくさに紛れてイギリスと同じ不平等条約を中国に押しつけました。
このアヘン戦争以来、中国が列強諸国の半植民地状態となっていく長い苦難の時代が始まりました。
(つづく)