ロットンさんからのコメントに答える形で、「公共の福祉」による人権の制限についてもう少し説明します。
ロットンさんのコメントの再掲。
ところで、「公益」と「公共の福祉」の違いをもう少し詳しく教えてください。たとえば、ある町で高速道路が通ることになった、町のみんなは観光客が来るし立ち退き料も入るしで賛成しているが、一軒だけ「先祖代々の田んぼを守る」と言って反対している、という場合。これは、みんなのためだ、といってその一軒に強制立ち退きさせることはできるのですか。させた方が合理的な感じがしますが・・・。でも「田んぼを守る権利」を取り上げることはできない気もするし。「公共の福祉」から「公益」になったら変わりますか。
ロットンさんが出してくれた実例は、実は、第29条の「財産権」の問題なのです。
その問題には後で触れるとして、まず一般原理としての「公共の福祉」による制約についてもう少し述べたいと思います。
「公共の福祉」による制約とは、多数決のことではありません。
「みんな」の利益と「一人」の利益とが衝突する場合に、人数の少ない方を犠牲にするということを人権制約の原則とするなら、たいへんなことになります。少数者の人権は全く守られなくなってしまいます。
先日、「脳死」を人の死とする法律が成立してしまいました。私としては、この法律は、「脳死」患者の人権を侵害する憲法違反の法律ではないかと思っています。一人の「脳死」患者を本当の死に追いやれば、○人の患者が臓器移植という治療を受けることができるのだという数の論理からすれば、この法案は「合理的」かもしれません。しかし、人権――その中でも最も大切な生きる権利――はその一つ一つがかけがえのないものです。まさにすべての人間は、個人として尊重されなければなりません。
ところで、ロットンさんの示した例は、実際にもよくありますね。この場合には人権一般ではなく、憲法29条の財産権が問題になります。条文を見てみましょう。
29条 財産権は、これを侵してはならない。
29条3項 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
この町で高速道路に反対している人を仮にAさんとしておきましょう。Aさんは自分の田んぼに並々ならぬ愛着を持っているかもしれませんが、法的には「先祖伝来の田んぼを守る権利」ではなく、土地という不動産を所有する権利です。これももちろん人権のひとつですが、他の人権と異なり、財産は金銭や他の財と代替が効くという特徴があります。
したがって、この事例の場合、現行憲法の下でも――「公共の福祉」が「公益」に置き換えられなくとも――、Aさんの田んぼは「正当な補償の下に」「公共のために」使用される可能性が高そうです。
この29条3項の「公共」は、「公益」と意味はさほど変わらないと思います。
しかし、ここでAさんに強制立ち退きをさせることができるのは、あくまで行政機関だけです。しかも土地収用法の手続きを踏んだ上でなければなりません。町の人々がAさんを無理矢理追い出せば、それは私的制裁(リンチ)ということになって、器物損壊、暴行、傷害など刑事罰の対象となり、民事的には損害賠償を請求されることでしょう。
「公共の福祉」による人権の制約というのは、一例を挙げれば、表現の自由があるからといって、他人の名誉権やプライバシー権を侵害してはならないというものです。
ひらたくいえば、人はいくらでも自分の自由や幸福を追求してもいいけれど、他人の人権を侵害するようなことについては制限されるということです。(どんな場合にどんな制限があるか、その基準については、また別の回で述べることにします。)
そして、人権の中でも財産権だけは少し別格で、これはさきほど述べたように「正当な補償の下に」「公共のために」使用されることもありますし、また弱者保護の観点から制限を受けることもあります。
財産権とその制限についても、また別の回で立ち返りたいと思っています。(鈴)
ロットンさんのコメントの再掲。
ところで、「公益」と「公共の福祉」の違いをもう少し詳しく教えてください。たとえば、ある町で高速道路が通ることになった、町のみんなは観光客が来るし立ち退き料も入るしで賛成しているが、一軒だけ「先祖代々の田んぼを守る」と言って反対している、という場合。これは、みんなのためだ、といってその一軒に強制立ち退きさせることはできるのですか。させた方が合理的な感じがしますが・・・。でも「田んぼを守る権利」を取り上げることはできない気もするし。「公共の福祉」から「公益」になったら変わりますか。
ロットンさんが出してくれた実例は、実は、第29条の「財産権」の問題なのです。
その問題には後で触れるとして、まず一般原理としての「公共の福祉」による制約についてもう少し述べたいと思います。
「公共の福祉」による制約とは、多数決のことではありません。
「みんな」の利益と「一人」の利益とが衝突する場合に、人数の少ない方を犠牲にするということを人権制約の原則とするなら、たいへんなことになります。少数者の人権は全く守られなくなってしまいます。
先日、「脳死」を人の死とする法律が成立してしまいました。私としては、この法律は、「脳死」患者の人権を侵害する憲法違反の法律ではないかと思っています。一人の「脳死」患者を本当の死に追いやれば、○人の患者が臓器移植という治療を受けることができるのだという数の論理からすれば、この法案は「合理的」かもしれません。しかし、人権――その中でも最も大切な生きる権利――はその一つ一つがかけがえのないものです。まさにすべての人間は、個人として尊重されなければなりません。
ところで、ロットンさんの示した例は、実際にもよくありますね。この場合には人権一般ではなく、憲法29条の財産権が問題になります。条文を見てみましょう。
29条 財産権は、これを侵してはならない。
29条3項 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
この町で高速道路に反対している人を仮にAさんとしておきましょう。Aさんは自分の田んぼに並々ならぬ愛着を持っているかもしれませんが、法的には「先祖伝来の田んぼを守る権利」ではなく、土地という不動産を所有する権利です。これももちろん人権のひとつですが、他の人権と異なり、財産は金銭や他の財と代替が効くという特徴があります。
したがって、この事例の場合、現行憲法の下でも――「公共の福祉」が「公益」に置き換えられなくとも――、Aさんの田んぼは「正当な補償の下に」「公共のために」使用される可能性が高そうです。
この29条3項の「公共」は、「公益」と意味はさほど変わらないと思います。
しかし、ここでAさんに強制立ち退きをさせることができるのは、あくまで行政機関だけです。しかも土地収用法の手続きを踏んだ上でなければなりません。町の人々がAさんを無理矢理追い出せば、それは私的制裁(リンチ)ということになって、器物損壊、暴行、傷害など刑事罰の対象となり、民事的には損害賠償を請求されることでしょう。
「公共の福祉」による人権の制約というのは、一例を挙げれば、表現の自由があるからといって、他人の名誉権やプライバシー権を侵害してはならないというものです。
ひらたくいえば、人はいくらでも自分の自由や幸福を追求してもいいけれど、他人の人権を侵害するようなことについては制限されるということです。(どんな場合にどんな制限があるか、その基準については、また別の回で述べることにします。)
そして、人権の中でも財産権だけは少し別格で、これはさきほど述べたように「正当な補償の下に」「公共のために」使用されることもありますし、また弱者保護の観点から制限を受けることもあります。
財産権とその制限についても、また別の回で立ち返りたいと思っています。(鈴)
これからもまたよろしくお願いいたします。