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祖父 鬼澤の鬼・・・とは?2021-07-09

2024年02月21日 | 家紋と苗字と・・・

経済月報2020年10月号_最終.indd (tsukubair.co.jp)

わがまちが生んだ偉人 佐備大麻呂

神栖市の東側は、太平洋に接する鹿島灘で. ある。この鹿島灘で戦時中、砂鉄が取れた。

www.t-aterui.jp/hitachi/h_asakagata01.html

・・・郡の東二・三里(さと)に、高松の浜あり。大海の流し差す砂と貝と、積もりて高き丘と成る。松の林自らに生ひ、椎・柴交雑(まじり)り、既に山野の如し。東西の松の下に出泉あり。八九歩(あし)ばかり、清く渟りて、太(はなは)だ好し。慶運元年に、国司、采女朝臣、鍛佐備大麻呂(かぬちさびのおおまろ)等を率て、若松浜の鉄を採りて、剣を造りき。此処より南のかた、軽野の里若松の浜に至る間の卅余里ばかり、此は皆松山なり。伏苓神(まつほど)を年毎に掘る。其の若松の浦は、即ち、常陸と下総と二つの国の堺にあり。安是の湖の有らゆる沙鉄は、剣を造るに大(はなは)だ利(と)し。然れども、香島の神山とれば、輙(たやす)く入りて松を伐り鉄を穿ること得ず。・・・・・軽野より東の大海の浜辺に、流れ着きし大船あり。長さ十五丈、濶(ひろ)さ一丈余なり。朽ち摧(くず)れて砂に埋もり。今に猶遺れり。淡海の世に、覓国(くにま)ぎに遣わさむとして、陸奥国の石城船造に令せてーーを作らしめき。此に至りて岸に着き、即ち破れきと謂ふ。(常陸国風土記 ㈱山川出版社)

鹿嶋と鉄 - 鹿嶋市ホームページ (city.kashima.ibaraki.jp)

7世紀になると東国では鉄の製錬が始まり、鍛冶工房がつくられ、鉄製品が生産されるようになりました。

鹿嶋市は現在も大きな製鉄所がありますが、古代から鉄と深い縁があります。

奈良時代に編纂された『常陸国風土記』の鹿島(香島)郡の条には「慶雲元年(704年)に国司の采女朝臣(うねめのあそん)が鍛冶師の佐備大麿(さびのおおまろ)らを率いて、若松の浜の砂鉄を採って剣を作った。」と記載されています。

鉄の製造は、砂鉄から鉄を造る “ 大鍛冶 ”と、鉄を加工して製品にする “ 小鍛冶 ” とがありますが、鹿嶋市の南東部には、大鍛冶の遺跡であると考えられる遺跡と小鍛冶の遺跡と考えられる遺跡が存在しています。

 

春内遺跡の鍛冶工房跡は発掘調査から7世紀後半(西暦600年代後半)のものと推定されていますが、これは『常陸国風土記』の「慶雲元年(704年)に国司の采女朝臣が鍛冶師の佐備大麿らを率いて、若松の浜の砂鉄を採って剣を作った。」と記載されている時期ともほぼ重なります。

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なにを張り付けまくっているのかと思われたかもしれない。

代理の祖父は、鬼澤という名前なのである。

連れ子だった父は、母(祖母)の苗字のままだったので、

鬼澤ではない。

ずいぶん昔のことなので、戸籍もかなりあやふやだったといいます。

例えば、徴兵検査などを考えて、戸籍を届けるときに

1歳の子なのに、5歳だと届ける。

5年も出生届を出していなくてもかまわない?

すると、徴兵検査が例えば16歳の時だとすると、実際は11歳なので

こんな発育不良の子は、兵隊に使えない・・・と

徴兵されずに済んだ・・・とか・・・

そんな話が父親の口からでていたので、戸籍自体をきちんと届けようという考えが

祖父には、無かったかもしれない。

 

で、鬼澤という名字のルーツを調べ始めたのだけど・・・

判らない。

そのまま、放置して、最近、ふと思ったことがある。

どこかで、読んだものだが、

「鬼」というのは、

鍛冶の神 天目一箇神の姿から来ている・・・

と、いう内容だったと思う。

と、すると、

鍛冶師が鉄の温度を見るのに片目をつぶって見ていたことや、鍛冶師が鉄を打つ際に火の粉を受けて目を失明するということからも「一つ目」は鍛冶職人の象徴

であるなら、「一つ目」=「鬼」となり、

もしかすると、鬼澤・鬼沢などの地名・苗字は

たたら製鉄に関わっていたことに寄るのではないか?

と、思い

最初に、茨木県鹿島・・戸籍では

茨木県鉾田群鉾田町・・だったと思う。

今は、鹿島市に替わっていると思う。

で、鹿島の製鉄を調べたところ、

奈良時代に編纂された『常陸国風土記』の鹿島(香島)郡の条には「慶雲元年(704年)に国司の采女朝臣(うねめのあそん)が鍛冶師の佐備大麿(さびのおおまろ)らを率いて、若松の浜の砂鉄を採って剣を作った。」と記載されています。

と、あった。

おそらく・・・

祖父、鬼澤の苗字の発祥は、鍛冶屋・・の鬼のような姿というところに関わってくるように思う。

また、鹿島といえば

 

東征の途中には土地の豪族たちの抵抗や、激しい戦いによる兄の死など、幾多の困難に遭遇しながらも一行は大和を目指します。一行が紀伊半島を周回しの熊野に上陸すると、悪神の毒気により兵士たちが次々と重い疫病にかかり倒れてしまい、全軍は壊滅寸前の状態に陥ってしまいます。

「御神影図」木村武山_鹿島神宮蔵

その時、高天原では天照大御神と高木神(高御産巣日神)が地上世界の喧騒を心配し、すでに天孫降臨を成就させた武甕槌神を遣わそうとしたところ、武甕槌神は「自分が行かずとも、国を平定した特別な剣があるのでそれを天より降せばよい」と仰られました。そして武甕槌神は熊野の高倉下の夢に立ち「高天の原の命によりこの剣を倉に天降すから、お前は朝目覚めたら天津神の皇子に献上しなさい」と伝えました。

天から降された一振りの剣(韴霊剣)(ふつのみたまのつるぎ)を、翌朝高倉下が皇子に捧げます。するとこの剣の持つ不思議な力、起死回生の力によって兵士たちは疫病から力を取り戻して蘇り、従わぬ豪族たちの抵抗も見事に平らげることができました。

その後、皇子一行は八咫烏の案内により熊野から吉野、吉野から大和へと進軍し、無事に大和の平定を達成しました。そして、この皇子は大和の橿原宮で初代の天皇、神武天皇として即位しました。

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その(韴霊剣)(ふつのみたまのつるぎ)が、

経済月報2020年10月号_最終.indd (tsukubair.co.jp)の中わがまちが生んだ偉人 佐備大麻呂

「慶雲元年(704年)に国司の采女朝臣(うねめのあそん)が鍛冶師の佐備大麿(さびのおおまろ)らを率いて、若松の浜の砂鉄を採って剣を作った。」

の剣にあたるかもしれない・・と語っているところをみると、

かなり、鍛冶屋が、神聖な職業であったともうかがわれるのだが、

実際、父から漏れ聞いたことによると

「わしは、神輿を作れる・・(組める?)」

と、いうことで、祖父 鬼澤がどういう職業であったかは聞き漏らしているが

なにかしら、神社にも、関わるのかもしれない。

実際、小野金物さんが、天目一箇神に奉納されるというくらいだから、

韴霊剣)(ふつのみたまのつるぎ)を産出したタタラバ/鍛冶があったとするなら

神職ともの鍛冶をおこなっていたかもしれない。

 

鍛冶の神「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」へ奉納|伝統ある小野金物「播鍛」公式オンラインショップ (banka.jp)

鍛冶の神「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」は、『播磨国風土記』では天目一命(あめのまひとつのみこと)という記述で登場し、『古事記』では「天津麻羅(あまつまら)」という名前で天岩戸開きにも登場している。天岩戸開きでは、岩窟の中に立てこもってしまった天照大御神を何とかして出てもらおうと、神々がそれぞれの役割を決めるが、その中で天目一箇神が鍛冶職を担ったとされている。(『古語拾遺』にも同様の記述がある)また『日本書紀』では、国譲りをした大物主神をまつる祭具をつくったとき「天目一箇神」が鍛冶を担当したと言われる。

「天目一箇神」の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」を表し、鍛冶師が鉄の温度を見るのに片目をつぶって見ていたことや、鍛冶師が鉄を打つ際に火の粉を受けて目を失明するということからも「一つ目」は鍛冶職人の象徴とされている。

 


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