聖徳太子が「唐人」であるとすると
どこから、そういうことになってしまったのかと考える。
ネットをぐぐっくてくると
曽我氏自体が、キリスト教であり、
仏教を隠れ蓑にして・・・
と、ある・・
そのキリスト教徒?であったという考え方があまりにも漠然としすぎている。
むしろ、
古代ヘブライ人の宗教を踏修したと考える方が妥当な気がする。
実際の確定された年代・年号など、ないのであるが、
出雲地方にいくと、かなり古い時期の神社起源がある。
紀元前から、と、いう神社があり
そこに祀られているのは「自然神」であることが多い。
例えば、水の神という具合で
日本にはやはり、最初から
八百万の神、自然崇拝があったように思う。
この形態があったことで、
ヘブライ人の祭祀がそのまま、融合したかのようにかんがえてしまうのであるが・・・
実はこれは、逆だったのではないかと考える。
饒速日が天磐舟に乗っていたという話は有名ですが、
すでに、あったのですね。
あまのとりふね【天の鳥船】
神が乗って天空を移動すると考えられた船。古事記では伊弉諾尊いざなきのみこと・伊弉冉尊いざなみのみことが生んだとする。鳥之石楠船神とりのいわくすぶねのかみ。
ー天磐舟ー
『先代旧事本紀』巻第五「天孫本紀」(経済雑誌社、国史大系巻7、明31)
天祖(あまつみおや)天璽瑞宝十種(あまつしるしみづたからとくさ)を饒速日尊(にぎはやひのみこと)に授けたまふ。則ち此の尊(みこと)天神御祖(みおや)の詔(みことのり)を稟(う)けて、天磐船(あまのいはふね)に乗て、河内国の河上哮峯(かはかみのいかるがのたけ)に天降(あまくだ)り坐(ましま)す。則ち大倭国(やまとのくに)鳥見白庭山(とみのしらにはのやま)に遷(うつ)り坐(ましま)す。天降りたまふ儀(よそほひ)天(あま)つ神の紀(ふみ)に明(あきらか)なり。所謂(いわゆる)天磐船(あまのいわふね)に乗て、大虚空(おほそら)を翔行(かけ)りまし、是の郷を巡睨(めぐりみ)て天降(あまくだ)りたまふ。虚空見(そらみ)つ日本国(やまとのくに)と謂(い)ふは是か。
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これらが、事実であるとするのなら、
古代天皇が世界中の国にいって、その地を統治した。
と、いうのも本当の様です。
すると、
以前、どこかに引用した
イスラエルの神官の霊?
オカルト的でいけないんだけど・・・
古代日本が、我々のルーツである。
と、いう言い方が納得できる。
つまり?
古代天皇がイスラエル(ヘブライ?)を統治したおりに
そのまま、住み続けて子孫を残したか?
何人かの日本人が天鳥舟にのって、移住したか?
統治するほどの勢力であれば
祭祀も日本式の物に成り
その様式が伝承された。
と、考えたくなるわけです。
だから、ヘブライ人がおなじような神社・神殿をもって
おなじように、祭祀を融合させていくことはかんたんだったのではないか?と
こうなってくると、
饒速日という存在
物部氏という存在は、
「唐人」である(かもしれない)
曽我氏や聖徳太子にとって、恐ろしい存在であり
どうにでもして、
その象徴ともいうべき、神道は
ヘブライ人との融合により、巨大な勢力をもっていくものであるため
どうにでもして、仏教をとりいれるしかなかった、と思える。
―――続くーーー
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