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聖徳太子と古代ヘブライ人  歴史の中の経緯・4

2024年03月18日 | 歴史の中の「経緯」

聖徳太子が「唐人」であるとすると

どこから、そういうことになってしまったのかと考える。

ネットをぐぐっくてくると

曽我氏自体が、キリスト教であり、

仏教を隠れ蓑にして・・・

と、ある・・

 

そのキリスト教徒?であったという考え方があまりにも漠然としすぎている。

むしろ、

古代ヘブライ人の宗教を踏修したと考える方が妥当な気がする。

 

実際の確定された年代・年号など、ないのであるが、

出雲地方にいくと、かなり古い時期の神社起源がある。

紀元前から、と、いう神社があり

そこに祀られているのは「自然神」であることが多い。

例えば、水の神という具合で

日本にはやはり、最初から

八百万の神、自然崇拝があったように思う。

この形態があったことで、

ヘブライ人の祭祀がそのまま、融合したかのようにかんがえてしまうのであるが・・・

 

実はこれは、逆だったのではないかと考える。

饒速日が天磐舟に乗っていたという話は有名ですが、

すでに、あったのですね。

あまのとりふね【天の鳥船】

神が乗って天空を移動すると考えられた船。古事記では伊弉諾尊いざなきのみこと・伊弉冉尊いざなみのみことが生んだとする。鳥之石楠船神とりのいわくすぶねのかみ。 

ー天磐舟ー

『先代旧事本紀』巻第五「天孫本紀」(経済雑誌社、国史大系巻7、明31)

天祖(あまつみおや)天璽瑞宝十種(あまつしるしみづたからとくさ)を饒速日尊(にぎはやひのみこと)に授けたまふ。則ち此の尊(みこと)天神御祖(みおや)の詔(みことのり)を稟(う)けて、天磐船(あまのいはふね)に乗て、河内国の河上哮峯(かはかみのいかるがのたけ)に天降(あまくだ)り坐(ましま)す。則ち大倭国(やまとのくに)鳥見白庭山(とみのしらにはのやま)に遷(うつ)り坐(ましま)す。天降りたまふ儀(よそほひ)天(あま)つ神の紀(ふみ)に明(あきらか)なり。所謂(いわゆる)天磐船(あまのいわふね)に乗て、大虚空(おほそら)を翔行(かけ)りまし、是の郷を巡睨(めぐりみ)て天降(あまくだ)りたまふ。虚空見(そらみ)つ日本国(やまとのくに)と謂(い)ふは是か。

*****

これらが、事実であるとするのなら、

古代天皇が世界中の国にいって、その地を統治した。

と、いうのも本当の様です。

 

すると、

以前、どこかに引用した

イスラエルの神官の霊?

オカルト的でいけないんだけど・・・

古代日本が、我々のルーツである。

と、いう言い方が納得できる。

 

つまり?

古代天皇がイスラエル(ヘブライ?)を統治したおりに

そのまま、住み続けて子孫を残したか?

何人かの日本人が天鳥舟にのって、移住したか?

統治するほどの勢力であれば

祭祀も日本式の物に成り

その様式が伝承された。

と、考えたくなるわけです。

 

だから、ヘブライ人がおなじような神社・神殿をもって

おなじように、祭祀を融合させていくことはかんたんだったのではないか?と

 

こうなってくると、

饒速日という存在

物部氏という存在は、

「唐人」である(かもしれない)

曽我氏や聖徳太子にとって、恐ろしい存在であり

どうにでもして、

その象徴ともいうべき、神道は

ヘブライ人との融合により、巨大な勢力をもっていくものであるため

どうにでもして、仏教をとりいれるしかなかった、と思える。

 

―――続くーーー

 


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