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乙巳の変 歴史の中の経緯・5

2024年03月18日 | 歴史の中の「経緯」

仮に饒速日が日本古来の民族だったと考える。

すると、日本には

元から、天照大神に象徴される

太陽信仰があったと言える。

 

そこに、ヘブライ人が渡来してくる。

これが、ヤマト朝廷になる高天原族ということにする。

 

縄文人のDNAが、アイヌ・・北に行くほど残っていると言う事からしても、

大和朝廷・ヘブライ人は

東方遠征・熊襲征伐など、縄文人の土地を搾取していったと考えられる。

 

そして、話はとんで、日本書記

そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる

乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 天智天皇は白村江の戦いの敗北で唐と新羅連合に敗北し、記紀編纂の余裕はなかった。既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。

聖徳太子は

敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた、とあるので、

大化の改新のころには70歳。

さらに日本書記の完成が720年

聖徳太子が146歳www

一方で

曽我入鹿

蝦夷が大臣であった642年皇極天皇元年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。

同年7月23日には従者が白色のの雛を手に入れた。雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。翌643年(皇極天皇2年)の10月6日には父から独断で大臣を譲られる。

これにより、実質的にも形式的にも蘇我氏の家督を継いだという見方があるが、この頃聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まったとされ、入鹿はこのような動きを押さえ古人大兄皇子を天皇につけようと図ったが、そのために邪魔になる山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。大臣を譲られてから1ヶ月も経たない11月上旬の事である。ただし、上宮王家討伐については皇極天皇即位に関して山背大兄王が謀反を起こす恐れがあるため他の皇族とはかって殺害した(つまり犯行は入鹿の独断ではない)と『日本書紀』とは矛盾する記載が「藤氏家伝」にある。

644年(皇極天皇3年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをそれぞれ「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。

これらの政策により、入鹿は実質最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちているものも拾わなくなったと言われた。しかし、そのような入鹿の天下は長くは続かなかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変によって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。享年は一説に35とも。従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。

 

********

 日本書記の完成が720年。

推古天皇28年(620年)聖徳太子と共に「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を記す。

645年?頃の乙己の変で、蝦夷は自宅に火を放ち、自害。

皇極天皇4年(645年)に天皇の御前で入鹿が殺害されると、蝦夷のもとに与する者が集まったが、翌日入鹿の屍を前にして、蝦夷は邸宅に火をかけ、自害した(乙巳の変)。享年59。なお、『日本書紀』によれば、『天皇記』はこの時に失われ『国記』は船恵尺が火中の邸宅から持ち出して、難を逃れた。後に中大兄皇子に献上されたとあるが、共に現存しない。

 

実際、個人邸宅に国記や天皇記がおかれていたか、今の人間の考えでは

非常に不可解である。

むしろ、自害を迫り、火をつけて、

その時に焼失した。

と、したか、

かなり、史実にそぐわない書き方、

蘇我氏にとって都合の良い書き方をしていた。

これをみとがめた、内通したものが居たとも考えられる。

 

これにより、蘇我氏と聖徳太子がかいたであろうことは、

焼失し、あらたに、日本書紀・古事記をかいていったとかんがえてもいいのではないだろうか?

 

ーーー続くーーー


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