最近よく思うのです。
すべての(と云っていい)人が、「・・・という可能性」で話をしていると。
どんな偉大な科学者でも「・・・であっただろう」
どんな偉大な考古学者でも「・・・と思われる」
どんな偉大な医者でも「・・・かもしれません」
と、断言はされないのです。
かと思えば、
昨年震災まもなく、『放射能はカラダにいい!』と云って聞かない東京大学教授がいたり、
『プルトニウムより塩の方が危険』と北海道大学教授が全国ネットTV番組で言っていたり、
平気(かどうかは知らんが)でとんでもないことをあたかも真実のように話す人もいる。
未来を占ってみても、地震を予知してみても、歴史を語ってみても、
絶対はない。
絶対数が100のうち、
99%の「確率」で「そうであろう」と言えるとしても、1%の「そうじゃない」ことがあるわけです。
なんだよ、結果的には2択じゃねーか。
もっともらしい話を聞かされようがナニされようが、「そうか」or「そうじゃないか」しかねーじゃん。
説得力がいくらあったって、「そうじゃない」場合がゼロじゃない限り、
可能性で話をするんなら、みんな同じじゃん。
『いま、手術をしないと命の危険が危ないです!』
危険が危ないってことは大丈夫じゃん。
いや、そうじゃなくて、
それほんとか?
余命数ヶ月って宣告されて数年生きたら『奇跡です!』って言うんだ。
うそこけ、なにもしなかったらどうなったかなんて誰にもわからんじゃんw
で、なんにつけ最後は自己責任になるわけで、
その昔ヒトラーは「彼らが私を選んだ運命だ、自業自得だろう」
そして某都知事は「文句は、俺を選んだ都民に言え」こう話されたそうです。
なんじゃそりゃ。
もうひとつ、やっぱりオイラのアタマでは理解できないのが、
前回の知事選で私は高橋さんに票を入れてませんから、私は高橋さんを選んでいません。
それをどうして結果がそうだから私が選んだことになるの?
いまや、泊稼働だ、瓦礫受け入れだと危険千万!
お願いだからヤメてくれ。
受け入れるのは人様にしておくれよ!
おっと、話が逸れました。
ま、とどのつまり、バリバリ左脳人間でなくていかったって話?
ちがうって。
公の場で発言しているおエラ方があーなんだから、
私たちも思うことを発言していいじゃん!ってことで、
いったん、スタジオにお返ししま−すw