HP用に書いてみたのです。
・経歴・
高校卒業後、定職にも就かずプラプラ。
よく出入りしていた古着屋のオヂサンに「移転するんだけど店長やらない?」とそそのかされて、
右も左も知らない18歳の若造がいきなり Rock Shopの店長をする。
給料は貰えなかったけど、楽しかった。
工場や地下鉄工事を経て、ファンシーショップで働く。
アルバイトながら一店舗の雑貨を任され、低価格品としては驚きの売上げをつくる。
一度退社するが一年後に戻り、21歳の頃、4プラB2にあったファッションウオッチ&喫煙具店の店長を任され、
喫煙具販売(小売り)東京以北最高の売上げに貢献する。
同フロア・リニューアルの際、時計専門店 click clack 誕生。(名付け親は私)
この店舗で「ポールスミス」の販売を全国で5本の指に、「エンポリオ・アルマーニ」の販売全国2位の実績をあげる。
G-ショックブームでてんやわんやの時もあった。
日本が誇る時計メーカー SEIKO が企画した全国の時計店が参加するディスプレイ・コンクールで最優秀賞を頂戴する。
副賞は「プロの指導によるディスプレイの仕方」。意味がわからないので、準優勝の方にお譲りくださいと辞退する。
そうこうしているうちに、時計部門総責任者に任命され、ここでの数年間は多くの経験を積ませてもらう。
オリジナル・ウオッチ制作会議の際、なかなか進行しない状況を見た先輩が「オマエが決めれ」と鶴の声を発し、
文字盤デザインの元を発案。
当初、400本の制作予定が、全国ファッション紙が取りあげてくれたおかげでとんでもないことになり、
通販では2ヶ月待ちとなるほど。
新宿に居を構える有名時計店から卸のオファーを頂くまでになった。
(この頃、社長の娘がモーニ○グ娘。一期生でデビューしたため、多少目論みがあったともいえる。)
延べ販売本数1,000本を優に超えた。限定品が限定にならなくなりそうだった。
2作目、3作目も好調。しかし突如、ドラマでも見ているかのような展開があり、3作目納品直前で退社したため遺品となった。
メーカーのプッシュのおかげで札幌老舗百貨店時計サロンに入るが、
熱い思いが志となり、無理を承諾して頂き円満退社する。
まもなくラブコールを送り続けた地元の会社に直前でフラレ、
熱い志はその矛先であったon time(主にロフトに入っているウオッチショップ)で披露することとなる。
この時、梅田、横浜、渋谷の店舗を数ヶ月経験。
札幌市しか知らないあんちゃんの視野は広がったのは言うまでもないが、同時にどこでもやれる自信を持った。
店長としては戻りたくなかったが有無を言わさず帰札。
低迷に困窮していた札幌店を着任翌月から回復に導く。
初の店長会議ではどんな手品を使ったんだと責められる(笑
本社営業部所属を前提に千葉店異動を言い渡される。
奇しくも言い渡されているさなかに「母が骨折」と姉から一報が「辞退、そして退社へ。」と決断させた。
不毛の期間を過ごし、2007年促されるように Lotustyle を立ち上げ、現在に至る。
ここからがまた長いのである。
経歴ってこんなに長く書かねーよな
最後まで読んで頂き、ありがとうございます