日々雑感

日々の思いを書く

旧海軍指令部壕

2011-01-08 16:31:02 | Weblog
海軍司令部壕
昭和19年(1944年)日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた壕で、当時は450mあlったと委荒れています。カマボコ型に掘りぬいた横穴をコンクリートと坑木で
固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵士が
収容されていました、戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後、
昭和45年(1970年)3月観光開発j行段によって司令官室を中心に300メートル
が復元されました。

★沖縄戦によう戦没者数=200.656名
日本側=188.656名
米軍側=12.520名

沖縄戦主要事項年表

昭和20年~
3月23日=沖縄本島の爆撃開始
3月31日=米軍首里、那覇を占領
4月7日 =戦艦大和以下沖縄戦救援海上部隊、徳の島沖で壊滅
6月23日=牛島司令官摩文2
6月27日=久米島で日本軍による住民虐殺事件
7月2日  =米軍戦作戦終了宣言
7月26日 = 対日ボッダム宣言発表

新年の1月4日にこの壕を見学して、初めに驚いたことは人力で掘ったことでした。
私は本土で国の為に学徒動員、勉学放棄にその後の人生に失望を覚えましたが、沖縄が
本土の盾(防波堤)になり住民は逃げ惑い、そして戦いに駆り出され、来る日も、来る日も死の恐怖と、飢えにと、当時を振り返り地獄の様相だったことでしょう。誰のため、何のために死んでいったのでしょうか?沖縄戦や、本土の無差別爆撃(人間を鬼畜るのですね)幸せにも、私は死には直面はしませんでした。
原子爆弾、まだまだ沢山悲惨な事実があるでしょう。子供たちには真実を教え平和の尊さの教育をと思います。沖縄の悲惨な戦を経験した新年でした。






























沖縄の新年

2011-01-05 14:26:13 | Weblog
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/cb/b06c4c0523c4f1611ace4e6a79c05bf7.jpg







今年の新年は沖縄での三日間をすごしたきました。冬の沖縄の気温を実感してきましたが高齢者が生活するには最高の所です。同じホテルに三日間の連泊で子供の運転で観光、沖縄の食べ物を食べ、中でもゴーヤチャンブルーにはこんなにも美味しいのかと思ったものです。(やはり味付けですね)車の中から見る沖縄の町の光景には博多の町にも匹敵する大きな町には驚きでした。また何年ぶりかの那覇空港の観光客の多さ、空港内の明るさ、空港内の広さには驚きでした。
南国沖縄、なにもかもが南の所為だと肌で感じました。

飛行機の爆音も新年の所為か静かな空でしたね。ホテルの16階から見る那覇の町の家々の瓦屋根がない風景には、さすが台風対策だと思いました。

高いビルもなく優しい町並みにはほっとします。コンクリートの町が当たり前と思う私たちには心地よい風景です。夜になると雨かな?の空が昼間は暖かい陽が射す沖縄に安心して観光も出来ました。

写真は窓から見えた地上の写真です。機内放送を何故しないのかと不思議に思うのです。
例えば地上の主だった所の放送ぐらいサービス出来ないのだろうか?

いつも不思議に思うのです。飛行ルートの地図を見ながら、地上の景色を見るのが私には旅の醍醐味なのです(ただいま、鹿児島上空、高度11.600メートル?と放送がありました)窓から見えた(開聞岳)雪の(高千穂の峰)と(韓国岳の噴火口)等々地上の雪景色が見えただけでも最高でした。離陸時の那覇の町~沖縄の町並み等が撮れないのが残念です。

元寇

2010-12-09 22:54:18 | Weblog
文永、弘安の役で蒙古の大群(軍船)が博多湾を埋め尽くした海を眺めて、志賀の島に住んでいた人たちはどんな思いだったでしょうか?思うだけでも恐ろしい事です。










点と線

2010-11-10 22:41:41 | Weblog

先月10月16日(香椎の祭りに)行ったとき、松本清張さんの(点と線)その他の
作品展を鑑賞しました。映画(点と線)の映画が(1958年)昭和33年、当時の香椎駅や香椎の町並みを写真で見ると時代の流れを思います。町並みが新しくなるのは生活もそれに連れて快適にはなりますが、昔を懐かしんでもどうしようもないとは思うのですが。
町は作れても、もう昔の町にはもどる再現は不可能です。昔の写真の重さに歴史を思います。どんどんデジカメをフルに使って、立てては壊す、壊しては立てる今を映像に記録して次の世代に残したいと香椎の古き町、香椎駅の写真で思いました。



















理解

2010-09-09 20:13:40 | Weblog
萩旅行で、仙崎まで行き、金子みすず記念館で、この優しい詩に出会い、教えられたのです。つい、口にする(もう聞いたよ)同じことを認知症の人に云っています。
(さっき、聞いたよ)と云うのです。(認知症の人は同じ事を何度も言います)

なんでもないと思う、この言葉は相手の心を知らぬ間に傷つけています。普段の生活の中にも、これと似たようなことを、云っている自分がいます。この誌には相手を気使う、また人を優しくする力が込められています。(言葉って元気、またどん底に突き落とすのです)


テスト

2010-06-23 14:33:00 | Weblog







癒し

2010-06-22 22:28:46 | Weblog
いよいよ後一日を残すのみの(29日.終了式)脳トレに行き、→家内が膝に注射をして帰宅
昼食をしてタクシーで、ホームでの友人の癒しの演奏会に家内と行きました。

いつも行った度に見るお年寄りの歌を歌う顔を見て目がぼ~~~つとなるのです。家内も
楽しそうに歌を歌い本当に音楽療法の素晴らしさを実感します。

金子みすずさんの書斎です。ここから優しい詩が私たちに発信されたんですね。
(亡くなられたのが昭和5年、私が出生の年です)


test

2010-06-21 22:42:48 | Weblog
test-1


またまた。

2010-05-24 22:18:41 | Weblog
毎日放送される無駄を省く仕分けの多さに肩に力が入ってしまいます。また言いたくもなる
んです。今までどうしてメスが入らなかったのが許せないのです。もういい加減にしなさいと、叱りたくなる。孫を持つシルバーには、大卒また高校生が就職できない現状に孫たちが重なるのです。(どこかの国の首相の言葉)で思い出すのが、

【失業は人間の尊厳を損なう】と言われていましたよ。その通りですね。幸いに私夫婦は贅沢はできませんが、医者にも行け、食べることにも事欠きませんが、今の若い人たちの現状を見たり、聞いたりすると言葉を失いますよ。奇麗事を言ってるんじゃありません、心の底から言ってるんですよ。

宝くじに夢を載せて購入していましたが、この収益の一部が納得できない事に使われているのを知ってもう宝くじに夢を託すのが馬鹿らしくなりました。

あるは?あるはの仕分けの実情にもう一度言いますがよくも今まで、我々が知らなかったのが悔しくなりました。

シルバーになって腹を立てまい(仏心、和顔愛語)と自重をしていましたが、それでは駄目なんですね。シルバーだからこそ言わしてもらいます。国民がウンと頷くお金を使ってくださいと最後に一言です。

母の日

2010-05-09 21:55:30 | Weblog
「母の日は カーネーションを 買おうとする 僕の心に 住む母の為に」

と詠んだこの人には、もう母はいない。生前中は、母の日には必ずカーネーション
を買っていたのである。母亡き後もカーネーションを買って帰ってお仏壇に供え、
お母さんと呼べば母の顔が心中に如実に蘇る事であろう。
「なんまんだぶ」と声に出た時、阿弥陀様の思いが心に満ちて下さる。

毎年母の日にはこの歌を思い出します。親は有難いです。子供には母って特別に思いがあるのです。毎日が母の日ですよ。私も母の逝った年齢を遥かに超えて生かされております。今夜は特別な思いのお仏壇での【南無阿彌陀佛】声明です。