中央線の電車に乗るときは右側に座席を指定します。
それはもちろん、車窓から富士山を見るためということもありますが、
この季節は桃の花を楽しむためでもあります。
標高が高いところは咲いているけれど、平地はもう咲き終わっていて、その代わり、ブドウの新芽が出始めている様子がわかりました。善光寺、横根を過ぎたあたり、山側を見ると、芽吹きでもえていました。
春の山の色を何色って言ったらいいのだろう、目に入るそれぞれの色の名前を呼ぶことが出来ないのがもどかしいですね。
石和温泉駅の手前に広がるブドウ畑が出てきました。
急いで写真に収めました。
なぜならここは甲府の歴史の大切な場所。いや、山梨にとって大切な地域です。
写真を大きくして見れますか?大きなお蔵が続き、そして木立が見えるところです。
甲府市移住定住コンシェルジュのフェイスブックページに、「ここはどこかわかりますか?ここに何があったでしょうか?」と載せてみました。
「石和手前あたり」と富士山の形でわかる方もいらっしゃったし、
偶然にもこの木立の下の畑の持ち主の方からもコメント頂いて驚きました。
「成澤城ですか?」とわたしの名前を付けたお城をおっしゃる方もいたのですが、実は、これが一番近いのです。
ここ、実は、武田家の館跡なんです。
武田信玄公の曾祖父、信昌が築いたとも、父、信虎が築いたともいわれています。
今ではここに残された「川田館跡」の看板のみがその事実を今に伝えています。
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この地は近くの笛吹川の度重なる氾濫があったらしく、川田の館も例外なく、上流から流れてくる川の水や砂によって幾度も被害にあったそうです。
もしかしたら、信玄公がその後、治水に尽力して、国土を守り、農作物の生産を上げようとしたのもこういう先祖の苦労や、民衆の声を聴いたからかもしれませんね。
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ここで、みなさん、何かおかしいって思いませんか?
武田氏といったら甲府駅北口を山に向かって登ったところのイメージありませんか?
要害山、積翠寺、そして武田神社の周辺を思い出しますよね?
実は信虎はこの川田の館から、居館を変えたのです。それが躑躅ケ崎館です。現在武田神社はその一部です。
躑躅ケ崎館は東と西、それに北の三方を山に囲まれた立地。唯一南に開けてなだらかな傾斜になり、どこに誰がいるか手に取るようにわかる、大自然を防御に使える天然の砦です。武田神社周辺にいらしたことがある方なら想像できるかもしれません。
ここに移り住み、「府中」(政治の中心地)を築きました。ここを拠点に各地に点在する豪族を従え、統一していく(ちょっと言い方が極端かな?)
それが皆さまおなじみ、信玄公祭りでみる24将ですね。24将の屋敷はこの躑躅ケ崎館周辺に築かれました。屋敷の名残や空気を今でも武田神社周辺で感じることが出来ますよ。
そうです、ここが甲斐の国の府中。
甲斐の府中ということから「甲府」と名付けられたんです。
川田から躑躅ケ崎に移った翌年に書かれた文書には「甲府」の文字が見れるそうです。
そしてそれが1519年、今から498年前の事です。
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甲府は2019年に開府500年を迎えます。
このシンボルはそれを記念して作られました。
今から498年前に信虎公が築いた「甲府」
よく、移住のご相談をしている時に甲府のことを「時代を重ねて、文化、歴史がしみとおり、時代がつながれているまちですよ」というのは、こういう長い積み重ねがあってのことです。
「つなぐ歴史 かがやく絆 こうふ開府500年」という言葉の通り、今度はこれから来る100年、200年、いや500年後に向けて甲府というまちを絆でつないで行けたらなーと思っています。
それはもちろん、車窓から富士山を見るためということもありますが、
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標高が高いところは咲いているけれど、平地はもう咲き終わっていて、その代わり、ブドウの新芽が出始めている様子がわかりました。善光寺、横根を過ぎたあたり、山側を見ると、芽吹きでもえていました。
春の山の色を何色って言ったらいいのだろう、目に入るそれぞれの色の名前を呼ぶことが出来ないのがもどかしいですね。
石和温泉駅の手前に広がるブドウ畑が出てきました。
急いで写真に収めました。
なぜならここは甲府の歴史の大切な場所。いや、山梨にとって大切な地域です。
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写真を大きくして見れますか?大きなお蔵が続き、そして木立が見えるところです。
甲府市移住定住コンシェルジュのフェイスブックページに、「ここはどこかわかりますか?ここに何があったでしょうか?」と載せてみました。
「石和手前あたり」と富士山の形でわかる方もいらっしゃったし、
偶然にもこの木立の下の畑の持ち主の方からもコメント頂いて驚きました。
「成澤城ですか?」とわたしの名前を付けたお城をおっしゃる方もいたのですが、実は、これが一番近いのです。
ここ、実は、武田家の館跡なんです。
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武田信玄公の曾祖父、信昌が築いたとも、父、信虎が築いたともいわれています。
今ではここに残された「川田館跡」の看板のみがその事実を今に伝えています。
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この地は近くの笛吹川の度重なる氾濫があったらしく、川田の館も例外なく、上流から流れてくる川の水や砂によって幾度も被害にあったそうです。
もしかしたら、信玄公がその後、治水に尽力して、国土を守り、農作物の生産を上げようとしたのもこういう先祖の苦労や、民衆の声を聴いたからかもしれませんね。
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ここで、みなさん、何かおかしいって思いませんか?
武田氏といったら甲府駅北口を山に向かって登ったところのイメージありませんか?
要害山、積翠寺、そして武田神社の周辺を思い出しますよね?
実は信虎はこの川田の館から、居館を変えたのです。それが躑躅ケ崎館です。現在武田神社はその一部です。
躑躅ケ崎館は東と西、それに北の三方を山に囲まれた立地。唯一南に開けてなだらかな傾斜になり、どこに誰がいるか手に取るようにわかる、大自然を防御に使える天然の砦です。武田神社周辺にいらしたことがある方なら想像できるかもしれません。
ここに移り住み、「府中」(政治の中心地)を築きました。ここを拠点に各地に点在する豪族を従え、統一していく(ちょっと言い方が極端かな?)
それが皆さまおなじみ、信玄公祭りでみる24将ですね。24将の屋敷はこの躑躅ケ崎館周辺に築かれました。屋敷の名残や空気を今でも武田神社周辺で感じることが出来ますよ。
そうです、ここが甲斐の国の府中。
甲斐の府中ということから「甲府」と名付けられたんです。
川田から躑躅ケ崎に移った翌年に書かれた文書には「甲府」の文字が見れるそうです。
そしてそれが1519年、今から498年前の事です。
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甲府は2019年に開府500年を迎えます。
このシンボルはそれを記念して作られました。
今から498年前に信虎公が築いた「甲府」
よく、移住のご相談をしている時に甲府のことを「時代を重ねて、文化、歴史がしみとおり、時代がつながれているまちですよ」というのは、こういう長い積み重ねがあってのことです。
「つなぐ歴史 かがやく絆 こうふ開府500年」という言葉の通り、今度はこれから来る100年、200年、いや500年後に向けて甲府というまちを絆でつないで行けたらなーと思っています。