”自分の「高田博厚の世界」”
2017年07月28日
ネットで高田博厚の作品も検索できるようになったのは、いいようで、大衆レベルの目線を介して触れるのがよくないようで、両面ある。ネットを利用することと、ネットの雰囲気を再び締め出して自分のほんらいの「高田博厚の世界」に戻ることとを、自分のなかで意識して行い、自分のほんらいの世界の境位を意識して保ち深めるのは、とうぜんである。
芸術というのは、ほんとうに知性のある者が携わるべきなのだ。ところが、すくなくとも日本では、すこし知性のある(けっして本当の知性とも思えないが)者は、知識のほうに逃げてしまう。結果、あまり知性のあるとはいえない者が芸術に携わり、世間も、そういう者たちを持ち上げざるをえない。芸術の現実にわれわれが常住的に覚える不満は、単純に、こういう事情に起因しているようにぼくには思われる。
高田博厚は、ほんとうに知性のある者が まともに芸術に取り組めばこれだけのことができるということを証する稀な例であると思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます