高田さんの日
2024年06月18日筆
高田博厚と芸術
今朝は近年にも憶えがないほどよく眠れた。この十年余、薬害の影響で昼夜逆転の生活をしつつ、当然、疲れた、休みが必要だ、と繰り返して言いながら、疲れを溜める一方の生活をしてきたが、その疲れがとれたような安眠だった。きのう(17日)は高田さんの命日だった。きのうの間、そのことは繰り返し思い出しつつ、その都度忘れていた。ぼくは、何十年も前の高田さんの葬儀の日にも、会場に赴く途中で、生きていない高田さんと対面してどうするのだ、大事なのは生きていた高田さんだ、と思い直して、引き返したような人間だ。だが、昨日は、高田さんのほうから、宜しく頼む、と言ってきてくれているような気がした。ぼくも、日課のことは忘れて高田さんに捧げる(集中する)日を週一日つくろう、と思った(毎日の日課はそれと両立するほど軽くなく、これに引きずられるなら、ぼくも何のために生きているのか分からなくなる)。
思索性が如実に現れている高田さんの彫刻は、彫刻という創作領域そのものが沈黙を本質とするものだけに、逆説的な、言葉にすれば無限に多弁な特質をもつ彫刻である。言葉になったときの緻密さが勝負であるような。そういうものをかれの彫刻そのものが孕んでいる。そういう制作がかれの生そのものであった。だから「神」が感ぜられるまでに至る彫刻なのである。この神は善悪を超えた、「美」としか言えないものであろう。(高田さんが彫刻家であるに先立って思索家であり、生涯、物書きであったことは、必然だっただろう。頼まれて書いたとはいえ、動機が不断に与えられたこと自体が、書くことが宿命であったことを物語る。)
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