これまで生きてきて、現実の生と、夢と、どこが違うのか、という思いがある。夢と同様、現実の生も、その実在性を否定することができる。デカルトがした通りに。それは、否定を阻むような積極的なものが、夢のような現実の生には無いからだ。否定しても襲ってくるようなものが無い。だからデカルトは、否定しても否定を撥ね返すようなもの、つまり実在性を、コギトにのみ認めた。それはそうだ。だが、デカルトは、否定しても否定を撥ね返す力が、コギトのほかに、たぶんコギトとは別の次元において、まだあることを、見逃したのではないか。それは、人間の言葉である。他者が私に、ぼくに、発した言葉であり、なかんずく、私の心を刺す、攻撃的な、針のような、針そのものの、言葉である。これは理性の壁をも、不条理に突き破り、いくら否定しようとも、防ごうとも、一時的な工夫や気散じをあざ笑うように、時が経てば再び、私の心を突き刺すことを再開する。この、その権利が無いと理性がとっくに判定を下している、他者の言葉こそ、コギトとは別類の、実在性を、事実そのものによって、示している。そうであるからには、そういう言葉を許す(赦す)ということは、欺瞞や偽善いがいのなにものでもない。自己欺瞞という観念は、こういう他者の言葉への偽善的態度そのものに先ず適用されねばならない観念だとさえ言える。こういう言葉を放っておいて、ぼくはそれを発した他者を許すことはできない。なぜなら言葉の力の実在性はどうにも否定できず、その力の実在性は、それを発した他者の実在性と分離し難いから。むしろ、そういう針の言葉が無かったなら、当の他者そのものも、夢と同様、いかなる実在性も、私にとって有さず、この世界と同様、この世界の一部として、夢そのもののように消え去ることだろう。そのほうが仕合わせな定めであったろう。ここで私は言いたいが、そういう言葉を発するに当たって、そういう他者には、私に言ってもどうせ許してもらえる、という、甘えが、最初からあったのではないか。そういう他者たちの様子をみていて、私にはそう確信できる。そして、それが人間関係であり、偽善的な許容を行使して、人間は生きてゆくほかはないのだ、という諦めが、そこにはある、と、私は確信する。私は、そういう偽善的諦めに基づいた人間関係を、断固拒否する。他者は、神の前でみずからの言葉の罪を懺悔し、生まれ変わって出て来るのでないかぎり、私からは再び受け入れられない。なぜなら、その言葉の実在的な力のゆえに、それを許す権利も力も私には無いからである。その者は、神から与えられた人格の力を、悪用したのである。そういうものを許す資格は、私には無い。神の前での懺悔とはどういうものか、日本人でも人間であるかぎり、神から逃れられないのはなぜか、じぶんで悟るがよい。
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