ぼくが今どういうものに意識が向いているかというと、人々が日々の営みのなかで普通にやっているあさましいことに、ぼくは嫌悪の気持ちをいだいている。嫌われることを嬉々として、相手を征服できるかのようにやっている。人間はこれほど愚かなのだ、と。それを真理の実行としてやっている。真理は、科学と同じで、人間の役にも立てば、破壊の道具にもなる。そういうことを深く意識あるいは自覚すべきだと、ぼくは強く思っている。そうして、すべて愛のないものは罪である、ということを知るのだ。
「身も蓋も無い」とは、表現や言動が露骨すぎて、ふくみも情緒(情感)も無い、という意味だと、国語辞典の類には載っていて、とくに「ふくみと情緒」という言葉がだいたいどの辞典にも使われていることに、ぼくは感心している。まさにそのことをぼくは思っているからだ。これをぼくは、1+1は2であって0でも3でもない、というような言い方、否定判断に拡張する数学的な言い方の、倫理的過誤、と呼びたい。こういう、身も蓋も無いままなのが「悟性」の次元であり、人間が人間なのは、この単なる悟性を超えるものを有しているからだと思う。それが、「高邁の心」とか、「真の自己」と呼ばれるものであり、「ふくみと情緒」と日本的に表現してもよいものだ、と思う。こういう点、単なる知の者は愚か者であり、真の智に達していない、と言うことができる。でも、こうやって批判することも、じぶんの安らかさから逸脱し始めることなのだ。だから、ぼくもこのあたりで矛を収める。
すべて愛によらないことは罪であることの、日常的実践に根差した理解が必要である。
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