「その3」からの続きです。
JR根府川駅から早川・片浦ハイキングトレイルを通って、前回は佐奈田霊社や石橋山古戦場跡を巡りました。
今回は小田原市石橋の佐奈田霊社前の道から同市早川の鎮守さま紀伊神社までです。
なお、周辺道路は一部で二車線道路などを通行しますが、多くは住宅街の生活道路を歩きます。
軽自動車でのすれ違いができない場所もあるのでドライブには向かない場所も含みます。
今回も長文&写真たくさんなので、お暇な時にお読みください。
佐奈田霊社前の上り坂を進みました。
振り返って左側のこんもりした木々が佐奈田霊社。
この目の前の山が石橋山です。
私の視線が、大庭景親が見た風景(進軍してきた風景)と言えそうですが、地形はちょっと違うと思っています。
もう少し歩みを進めてから、また振り返ってみました。
この地域はこんな感じで山の中腹に切り開かれた道がありますが、かなりうねっている道が多いです。
左側に見える陸地は平塚市方面。肉眼では房総半島の方まで見えましたが、写真では映りませんでした。
相模湾が一望できます。
ほほう、あの三浦半島から三浦一族の援軍がやってきたのか、と思いつつ、大庭景親を討つことはできなかったンだよな、とちょいと思いを馳せました。
同じ場所から真ん中あたりの市街地は小田原市中心部から足柄平野の扇端。
このあたりからガードレールがあって、足を踏み外して崖下まで落ちる心配が無くなりました。
ボンヤリ歴史を思い出すにはガードレールがないとちょいと怖いです(苦笑)
カーブを過ぎたら急に道幅が広くなるし、路上駐車の車もちらほら。
急に人の気配もして、これまでの静かな印象が一変。
海岸沿いの国道135号線が僅かに見えて、眼下にはJR東海道本線。
継ぎ接ぎみたいになっているけれど、左側が平成、右側が昭和かな?
この継ぎ目で土砂災害に違いがあるんじゃあないかな?と素人思考をしてしまいます。
その近くにはかなり古そうな石垣もありました。
この辺りは撮影スポットとして有名なのか、カメラを構えている人達がたくさんいらっしゃいました。
佐奈田霊社や石橋山古戦場跡辺りまではハイカーとすれ違うことはなかったし、途中で鉄道写真愛好家の方を2人見かけたくらい。
軽トラックは数台とすれ違い、畑の中の農作業者は3人くらい見かけました。
この場所には6~7人くらい、いやもう少しいらっしゃったかな?
上の方もは果樹の放置園かな?
コンクリートよう壁と石垣で整備はされていますが、葛のツル(?)が意外と広がっていました。
石垣山一夜城歴史公園への案内板に出会いました。
安土桃山時代、豊臣秀吉の小田原城攻めの一夜城です。
源平合戦の石橋山古戦場と小田原城攻めの一夜城は、歩いて1時間くらいの場所です。
ここから歩いて行ける範囲であり戊辰戦争の激戦地の1つ、箱根坂も徒歩範囲。
昔からこの辺りは戦場になりやすいのです。
看板に従って少しだけ一夜城方面に進みました。
この辺りは集落の一番上になり、人気がないのでシートを敷いて休憩しました。
休憩した場所の対岸です。
ここは石橋山石丁場(いしばしやまいしちょうば)と言います。
今は河津桜の木が植わっていますが、根元辺りに大きな石がゴロゴロ転がっています。
川には私設橋らしき橋が架かっていますが、いずれも私有地なのか通行止めになっています。
石丁場とは、石垣などに使う石を切り出す場所のことです。
小田原市の隣町の湯河原町は、本小松石(ほんこまついし)という良質な石材の産地です。
ここ石橋山から一夜城がある石垣山は、本小松石は名乗れないそうですが、やはり良質な石材を産出するそうです。
日本の城郭で石垣が使われたのは戦国時代後期からです。
とくに江戸時代初期は江戸整備で良質な石材である伊豆周辺の石(通称:伊豆石)がたくさん使われています。
よって今私の目の前に広がる風景は、現代の地形であって、源平合戦の時代とはかなり違う…これを肝に銘じておきます。
さてここで休憩を取りながら、少し思案しました。
この日はトンガの火山噴火の影響で当地でも津波注意報が発令されていました。
そのため海岸沿いの国道135号線を避けて急遽、山の中腹を歩くハイキングコースを選んでいました。
しかし海岸沿いを通行する国道135号線は通行止めにはなっていないし、津波自体はすでに40センチくらいで到達済み。
石垣山一夜城方面に進むには、ちょっと足の痛みを感じ始めていました。
とりあえずここから海岸沿いを進むとだいたい海抜7メートル以上はあるし、この先は入り組んだ海岸線ではありません。
津波避難所になりそうな所を地図アプリ確認し、小田原市や神奈川県のホームページで避難情報を確認してから、少し海岸線を歩くことにしました。
ここからは川沿いに海岸近くまで小さな集落の生活道路を通過しました。
木製の電柱です。
これがかなり年季が入っています。
どうやら個人宅の敷地に立ててあるから、個人所有?
でもご近所の電柱の中ではハブの役割があって、分岐がたくさんです。
見応えある木造電柱だと、口を開けて見上げてしまいました。
しばらくしてバス停到着。
石橋バス停は平日のみ停車。土日は運行がありません。
ここは国道135号線になりまして、蒲鉾の鈴廣石橋店のすぐ近くです。
ここからしばらく国道沿い(沿岸部)を歩きます。
海岸線の少し先に島のように見える部分は、真鶴半島。
石橋山で挙兵した源頼朝はここでの合戦では負けます。
命からがらこの真鶴半島から手勢7人で小舟に乗り、房総半島に逃走します。
左側の崖の上はJR東海道本線。
道路の右側は西湘バイパスの石橋IC。
ただいま集中工事実施中。
西湘バイパスは海岸沿いなので、台風や高潮のたびに破壊されてしまうような立地です。
それに1923年の関東大震災の震源地はこのバイパス直下と言われています。
このブログを読んで車で訪れたいと思われた方は集中工事期間の通行規制にご注意ください。
このよう壁の上はJR東海道本線。
この日は国道135号線沿いで2組の町歩きグループとすれ違いました。
この場所は歩道が広いのですが、すれ違いができない道幅の所もありますので、お互いに譲り合い精神で気持ちよくすれ違いましょう。
ここから少し先に「漁港の駅TOTOCA小田原」という漁港の商業施設があります。
以前、一度MIFさんに連れてきていただきましたが、海抜1メートルくらいの場所ですし、この日はまだ津波注意報の解除前だったので、このまま早川駅方面に旧道に進みました。
小田原市早川の紀伊神社に立ち寄りました。
ここは惟喬親王ゆかりの神社…となっていますが、惟喬親王はこの地にゆかりがある経歴とは思えず。
木地師の祖とされるのが惟喬親王なのですが、これも伝説の1つ。
通称木の宮さまと呼ばれ、この近くに木地師が多かったのでこの集落の氏神さまです。
そう言えば、随分前に箱根の寄せ木細工の大元は、小田原から発展したと聞いたことがあるし、小田原市中心部よりは、早川辺りに職人さんが、たくさん住んでいると聞いたなぁ、とぼんやり思い出しました。
参道の上を東海道本線の線路が通過…ビックリしました。
地図アプリで見たときは、生活道路に踏切があってその先に参道ががあるのかと思っていました。
忠魂碑は山県有朋の揮毫。
ここから1キロくらいの箱根板橋駅(箱根登山鉄道)の近くに山県有朋の別荘があったことにちなむのでしょう。
境内の端からJR東海道本線の線路を見ました。
ちょうど電車が通過しました。
こんなに近くで電車が通過するだなんて、怖いくらいでした。
私にとって線路は関係者外が立ち入れないようにガッチリとガードされているものという印象です。
だからこういうガッチリ感がない場所は少々不安な印象になります。
今回はここまでです。
続きは明日以降にアップします。
これまではほぼ石垣やよう壁など石やコンクリートを見てきて、最後に紀伊神社で木地に関することに出会いました。
石や木を材料に職人さん達の生活の場であり、稲作は難しいそうな地形で、柑橘類やお茶が現金作物なんだと気がつきました。
私が小学生の時、足柄平野は「神奈川県の穀倉地帯」と習ったモノの足柄平野の扇端から少し外れると、もう稲作は難しい地域なのかと実感しました。