「その2」からの続きです。
JR東海道本線の根府川駅を出発し、小田原市米神辺りをウロウロしています。
今回は米神から文三堂方面に進みます。
※小田原市が整備している早川・片浦ハイキングトレイルを歩いていますが、軽自動車のすれ違いが難しい細い道で待避所も少ない道です。車でドライブするコースではありません。
今回も長文&写真たくさんなので、お暇な時にお読みください。
この写真、左側が下がっているように見えますが、石垣の上の部分は比較的水平でしょう?
右側に向かって上り坂なのです。
コースは舗装されていますが、相変わらずアップダウンがあります。
でも石垣好きの私には苦になりません。
石の積み上げ方法が場所によって違うので、楽しませてもらっています。
道路はアスファルト舗装が少なくて殆どコンクリート舗装です。
アスファルトはすぐに剥がせるので、地中に水道、ガスなどの配管が埋まっていることが多いです。
コンクリートは丈夫で舗装を剥がすことを前提にしていません。
急坂なのに真空コンクリート舗装(輪っか模様)が施工されていないことにちょっと驚きです。
予算の関係?農道で一般車両の通行を想定していない?など私が考えても仕方がないことを考えながら歩いていました。
時々足を止めて相模湾を眺めました。
真ん中あたりの海岸沿いの山端は、平塚市の湘南平(しょうなんだいら)。
ここにはテレビ神奈川(tvk)の電波塔があり、この麓の海岸沿いに箱根駅伝の平塚中継所があります。
肉眼ではうっすらと江ノ島や三浦半島も見えました。
今度はかなり下って行きます。
電線が急坂なのを教えてくれています。
所々に私が好きなイヌマキの垣根があったり、垣間見える石垣、柑橘畑…アップダウンの間も風景を一向に飽きることがありません。
ここはブロック塀かと思ったら、コンクリートに模様?でも下と上で模様(積み方?)が違うのはどうしてかな?と考えたり。
ダムのよう壁か?と思うくらいのカーブしたよう壁。
でもダムではなく谷戸の土留めという雰囲気。
ちなみに今回歩いたコースでは最大のよう壁でした。
アロエの花を発見!
1月半ばですが、もうアロエが咲いていて、やはり私が住む川崎市よりは気温が温かい地域なのだろう、と感じました。
ここの石垣は細かい石を規則的に並べていて、ちょっと他の石垣とは雰囲気の違いを感じました。
ここは丸みがある石、尖った石、コンクリートブロックが混ざって積んでありました。
コンクリートブロックが身近な素材だった昭和の高度成長期以降に積まれたのかと思いました。
ここも丸みがある石。
わざわざ海岸近くから運び入れたのか、前出のダムのようなよう壁の改修工事の際に出てきた石なのか?と。
ちょっと考えながら歩いていたら、文三堂に到着しました。
文三堂です。
石橋山の戦いに源氏方で参戦した陶山文三家康が果てた場所であり、祀ったお堂です。
そう、私がこの日に歩いていたのは、源頼朝が最初に挙兵した、石橋山に至るまでの道です。
たくさん石垣を見て、風景を楽しんで、写真撮りまくりで、JR根府川駅からここまで徒歩で1時間でした。
ここも石垣と柑橘畑で囲まれています。
近くには駐車場はありません。
路上駐車もできない狭い道なので、徒歩で見て回るのがやはり一番いいと思います。
ここは石橋山古戦場の一番南端くらいですが、本当にここで合戦したの?という地形です。
私が目にした石垣はおそらく近世以降の作ったのかと思うし、何より水源らしいものがないので稲作をしていた地形とは思えず。
そうなると海岸近くは漁業ができたけれど、作物栽培が難しくて杉などの木材の産地だったか?
石の産地として注目されたのは石垣が城郭に取り入れられた中世末期かとは思いますが、はて、ここは人が住めたのか?と思った次第です。
すぐ近くに「ねじり畑」があります。
陶山文三家康は、佐奈田与一義忠の郎党で、与一はこの場所で討死しました。
石橋山の戦いでは源氏方の先鋒です。
佐奈田姓ですが、真田とも表記されます。
神奈川県平塚市真田が本拠地だったそうです。
この農地で収穫した作物は何でもねじれてしまうそうで、ねじり畑と呼ばれているようです。
ここも狭い道で勾配があり、平らな場所はありません。
このハイキングトレイルコースで初めてARポイントです。
そしてここで痛恨のミスをしました。
石橋山古戦場跡を見るためにここまで来たのに、写真を取り忘れました。
こんなことある??
と今になって呆然としています。
とりあえず石橋山古戦場跡には道路脇に石碑があるだけでやはり狭い道と急坂でした。
ここで合戦したのか?ホントに?
そう思うしかないです。
古戦場跡から先ほどの案内板まで戻ってくると、佐奈田霊社に行ける石段があるので石段を登りました。
境内には石碑がたくさん。
狛犬ちゃん。
与一塚。
ここが佐奈田与一義忠のお墓と言われています。
佐奈田霊社。
せき・喘息を鎮める、全国で唯一の霊社とのことでした。
こちらの堂宇の真ん中に武者人形がありました。
説明はないのですが、佐奈田与一義忠かと思いました。
境内には僅かに梅の花が咲いていました。
境内の端から少し開けた所が見えました。
佐奈田霊社の駐車場などがあるのですが、これは後年整地したのであって、源平合戦の時代は山の中じゃあないかな?
先ほどの境内の端からスロープを下がったところ。
案内板もあります。
ここが佐奈田霊社の駐車場で、このあたりでちょっと道間違いをして人家の敷地に入ってしまい、慌てて一般道路に戻りました。
一般道路と私有地のスロープは、どちらともコンクリート舗装のことが多い地域なので区別がなかなか分からない地域です。
誤って入り込んだと気づいたら、すぐに立ち去りましょう。
今回はここまで、続きはその4からです。
石橋山の戦いは、今から840年ほど前ですから地形自体整地によって随分変わっているとはいえ、こんな山の中腹で狭い道と急坂ばかりではまともな合戦ができなかったように思いました。
一応、源頼朝は石橋山に300騎で布陣したことになっていますが、馬に乗った武士が300騎も駐屯できるのか?から疑問に思うし、そこに北東方面から大庭景親3000騎、南西方面から伊東祐親300騎が押し寄せて合戦って…。
騎馬はもっと少なくて、歩兵中心のゲリラ戦なら分かるけれど…と、私の感覚、違和感を感じざるを得ませんでした。
いくら何でも拙攻(せっこう、様子見したりスパイ活動する人)くらいいただろう?と。
そのことについて後刻MIFさんに話したら「当時の合戦はもっと偶発的だし、拙攻がちゃんとしたデータを持って帰ってくると思うか?」とのこと。
ああそうか、私が思っているのは、現代人の私が現代の感覚で戦を捉えていて、当時の本質的なものの見方ができていないのか、と気がつきました。
とりあえずこの日、どうしても見てみたかった石橋山古戦場跡を見て思ったのは、こんな山の中で合戦して、源頼朝が敗走せざるを得なかったのは、合戦場として適していなかったことも原因じゃあないかな?と思いました。
まだまだ続きますが、続きは明日以降です。