makoto's daily handmades

小田原市・ニノキン先生@DEEP その2

その1からの続き。カテゴリ「地図を持たない町歩き」の番外編。



尊徳記念館前に子ども向けの十訓。でも大人だってこれができていない人がいるなぁ。こういった基本的な生活を教えられるから日本人は真面目で誠実な人が多いと言われるのだろう。そう思った。


本日のセカンドニノキン先生(木製)とサードニノキン先生(小さなガラスケース入り)。
木製は台湾産。薪を背負ったニノキン先生は、千葉県の道の駅「保田小学校」で見かけたのが人生初。ちなみに木製のニノキン先生に出会ったのは人生初。


展示室は撮影していいのかよく分からなかったので、足柄平野の地形がよく分かる模型だけ、遠目に撮影。

ガイドボランティアさんにいろいろ教えていただいて、ありがたかった。
「その1」でも書いたが、足柄平野は神奈川の穀倉地帯と習っていたが、酒匂川の氾濫で何度も田んぼが潰れたことがあったそうで、穀倉地帯と言っても私が思うような歴史ではなかったのだろうと感じた。
私が生まれ育ったところは、谷戸田だから川の氾濫はあまり起こらない分、畑作の方が合っていた土地柄だ。

展示では本当に苦労した部分は意外にも軽く流してしまっていたので、その辺りをもっと詳しく!と思うこともあった。

それと、ニノキン先生は寺子屋にも通ってなかったそうなのだが、字がとても読みやすいんだ。
古文書で自筆の手紙が展示してあったが、比較的私でも読みやすくて、くずし字辞典のお手本で載っているような字だと感じた。



記念館の隣にはニノキン先生の生家がある。この家は紆余曲折、何度も移築されて昭和34年まで人が住んだ後にこの地に戻ってきたそうだ。


フォースニノキン先生。


敷地内の石碑。


敷地内の石碑。


案内板。


茅葺き屋根の家屋は新たに建てることができない。消防法の関係だから。


家屋内。


土間の展示物。


裏手に出て見上げたら、いい具合に屋根に宿り木があった。

この生家がある場所は、御木本幸吉氏のおかげで保全できた。世界で初めて真珠の養殖で成功した人だ。
御木本幸吉さん、私財をなげうって養殖に取り組んでもなかなかうまくいかなかった。それをニノキン先生の教えを支えにがんばったそうだ。
だから、後年この地を訪れたら、ニノキン先生の家もなければ、土地も人に渡って桑畑になっていたのを嘆いたそう。
だから、ニノキン先生の生誕の地を買い戻して寄付してくれたそうだ。

御木本幸吉さん、ありがとう!あなたのおかげでニノキン先生の生誕の地が保全できたんだ。
そう思うと、ニノキン先生って会ったこともない後世の方にも勇気と希望を与えて、スゴい人だとしみじみ思う。

それとニノキン先生の家屋は何度も移築しても、その家族が「この家はもともと二宮尊徳さんのおうちだった」と知っていたそうだ。だからとても大事に使っていてくれたそうだ。
その言い伝えのせいか、移築を何度もしていると言うのに柱や梁に傷がないなぁ、と言う印象だ。ありがとう、ニノキン先生のおうち保全をしてくれた方々!



これが記念館の全景。撮影位置にはベンチがあってとても爽やかな風がながれていた。
暫く休憩した。ちょっと足が怠くなってきたから。


記念館裏辺りの用水路。


これも記念館近くの用水路。
道路と用水路の水面が近い。後でMIFさんに聞いてみたら、彼が子どもの頃はこの辺りは大雨の時に床下浸水とかあったみたい。今は知らないと言っていたけど。
今日みたいな晴れの日なのにこの水量なら…と想像してみた。


この道を真っ直ぐ進む。


脇を見るととても立派な私道があった。よく見たら明治製菓の事業所らしい。事業所自体はどれなのかさっぱりわからなかった。


おお、珍しい。現役の丸ポスト。うちのご近所では見かけないなぁ。


富水郵便局。建物の周りに水が張ってあって、水の中に浮いているみたい。


富水(とみず)駅。さっき降りた栢山駅の1つ小田原駅寄りの駅。


駅構内から富士山方面を望む。富士山はお隠れ中。


富水駅から栢山駅方面を望む。


駅舎全景。


逆光。


あははははは、今も4両編成が走っているのかな?
MIFさんとおつきあいをした頃、小田急線の本線で4両編成が走っていると聞いてびっくりして、その走っている姿を見たら微笑ましくて、同じ神奈川県とは思えなかったっけ。


富水駅で電車に乗って、栢山駅、開成駅をやり過ごし、新松田駅で下車。
ちなみに、今日立ち寄った開成駅、栢山駅、富水駅の3駅は初めて利用した駅。


新松田駅のホームで見つけた表示。


新松田駅ホームから小田原駅方面を望む。


新松田駅全景。


駅の通路にある富士山が見える窓。でもやっぱり雲の中。


新松田駅を出たところでMIFさんと待ち合わせて帰路についた。

今回はほとんど土地勘がない場所での町歩きだったので、自分の五感をフル活用だった。

地図を見ながら歩けば簡単なんだろうけれど、地図を見ないからこそ見つけられる風景もあるし、逆に見落としている有名な名所もあるのだけれど。
今回はニノキン先生をテーマに、ニノキン先生が見ていた風景を追っかけようと言うモノだった。

私には、もっとニノキン先生の像とかキャラクターがあって町おこしをしているのかと思っていたら、それほどでもなかった。
ニノキン先生のような質実剛健で質素倹約の教えだからこそ、派手に取り組めないのかもしれない。

町の中を歩いて感じたのは、私が住んだことがあるところとは町並みの雰囲気が全然違う。小田原藩という親藩とは言え、直轄地との違いなのかもしれないが、穏やかな風景が続くのだ。
そして現役用水路の水量とその巡らされた様子。歩いても歩いても、水が流れる音が追いかけてくるような、今までなかなか経験したことがない音と田んぼの風景があって、こんな町歩きが出来て本当に嬉しかった!
こんな経験、今までしたことがなかったかも!本当に楽しかった。
一点、うっかり帽子を忘れて来たことは「やっちまったな!」だった。顔がヒリヒリするほど日焼けしてしまった。

一緒には歩かなかったが、ここまで連れてきてくれたMIFさん、ありがとう!

☆☆☆おまけ☆☆☆
今日出会った尊徳記念館のボランティアガイドさん。
ガ 「小田原城には行ったことありますか?」
私 「ありますが、この春に新しくなってからは行っていないんです」
ガ 「ぜひ行ってみてください。とってもいいんですよ!まだ私は新しくなってから行っていないんですが」

あははははは、まだ行っていないんだ!私も行っていないから、行きますね、今度。

コメント一覧

makoto
驚きました!
裕さん
コメントありがとうございます。広島市にニノキン先生の像がたくさんあって驚きです。戦前の修身の授業の影響でしょうか?それとも報徳思想を普及する活動があったのでしょうか?
でも薪背負ったまま読書してますね。尊徳記念館のボランティアガイドさんの話では、薪を拾った所の山道はとてもながら読書が出来る場所ではなく、今回ご紹介したとおり近隣は水路だらけで、薪を背負ったまま読書は出来なかったそうです。

ニノキン先生の生家が大きいのは、私も驚きました。
理由は、お祖父さんの代に総本家から分家されたときの建物だそうです。ニノキン先生のお父さんが元気だった時までは中流農家だったけれど、先生13才でお父さんが亡くなり、一家離散。ちょうど近くの酒匂川(さかわがわ)が大氾濫をした後だったそうです。
恐らく、近隣農家も経済的に苦しかったので先生のお宅を助けることができず、すべて家屋敷、家財道具に至るまで処分せざるを得なかったようです。

農家は天災1つで運命が変わる、と聞いたことがありますが、本当に数奇な運命を乗り越えた方だと思いました。
生家・・・
おはようございます、makotoさん。

二宮尊徳関連の記事を興味深く拝見しました。
広島市内(主に小学校ですが)に建立の二宮尊徳幼児の像を撮影していることからでもあります。
http://masuda901.web.fc2.com/page04acx09.html

生家の画像を拝見して(大きい家なので)豪農に生まれたと思いました。
武士の家に生まれた乃木大将が幼児時期過ごした家(瓦葺ですが)の小さな家を長府でみたからそう思ったのですが。
http://masuda901.web.fc2.com/page05fx03c.html

ニノキン先生と親しみを込めて?呼ばれることもしりました。
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